被災地からの報告

大津波に立ち向かった松林“奇跡の一本松”に再生への願いをこめて

国際森林年記念シンポジウム「海岸林を考える~東日本大震災からの復旧・復興に向けて~」から

箱庭のように美しい松原

高田松原は、リアス式海岸が入り組む三陸では珍しい全長2キロメートルにも及ぶ砂浜と緑いっぱいの松林でした。松林はクロマツやアカマツなど7万本の松で形成されていました。

明治時代には日本百選(1927年)に選ばれたのをはじめとして、国指定文化財(1940年)、都市公園(1958年)、新日本百景(1958年)、陸中海岸国立公園(1964年)、日本の名松百選(1983年)、森林浴の森百選(1986年)、白砂青松百選(1987年)、海と緑の健康地域(1996年)、日本野渚百選(1996年)など優れた景色や公園に送られる沢山の指定や選定を受けてきました。

あまり大きくはないのですが、箱庭のように美しい松原でした。海水浴やキャンプで多くの市民の方が集い、人々から愛され続けました。毎日の暮らしの中の散策にも多くの市民が利用していましたし、お年寄りを中心に市民の交流の場としても利用されていました。癒しの場でもありました。高田松原を陸前高田市民は本当に愛してきました。

美しい松林で親しまれた高田松原

松くい虫の駆除で始まった守る会

私たち「高田松原を守る会」は松くい虫の発生を契機に、松くい虫の防除を目的に松くい虫から高田松原を守ろうということで発足しました。松くい虫の被災地を見学して、「あんなになったら大変だなあ」ということで、松くい虫の防除を行いました。

そのほか、清掃、草刈り、いろいろな活動をやってきました。私はある団体と共同で「高田松原ものがたり」という写真集もつくりました。自分で写真を撮って文案をつくって、絵を描いて、スタッフと一緒に一冊の冊子にしました。高田松原の素晴らしさを訴えようと、それを学校の子供たち全員に配るような活動も行ってきました。

それほど市民が愛してやまない松原でした。1960年5月のチリ沖地震の津波の際には津波の災害を軽減し、市民を守った松原でした。しかし、今回の大津波ではひとたまりもありませんでした。松の木は全滅に近い状態です。消えた松原となったのです。

被災当日の高田松原

大地震が発生したとき、いつものように松原の中を散策していた人がいます。200~300人はいたようですが、その何人かの方々から当時の模様を聞きました。

代表的な例ですが、「高田松原の東側にある中央水門の付近にいて、地震発生。強い揺れにより、高い第2堤防の5~6メートルもある台が倒壊したのを確認した」。地震の直後には津波を防ぐはずの防潮堤が壊れたというのです。その間、松原地内にある野球場やサッカー場、松林、道路あるいは散策路が軒並み陥没したといいます。

そして地中から泥水のような水が2メートルくらいの水柱をあげて噴出したといいます。液状化現象だと思われます。いまでも松林の地表は1メートルほど陥没しています。

高田松原の背後には古川沼と呼ばれる広い沼があったのですが、地震が発生すると同時にその沼の水もなくなり、底が見えたといいます。原因は不明です。なぜなのか分かりません。沼の底の地面が割れたという人もいますが、確認されていません。ある方は、「高田松原のある入り江の広田湾からは東に岩手県の広田半島、西に宮城県の唐桑半島が見えます。当日、半島と半島の間のはるか沖合いに半島と同じくらいの高さの隆起物が見えた」というのです。

大船渡の住民に聞きますと、そういうものは見なかったといいます。高田松原を散策していた人3名ほどが同様の話をしています。それが何なのかは分かりませんが、おそらく陥没したプレートの反動で海面が見えたのではないかと思われます。

広田湾と高田松原に地震の直接的なエネルギーが伝わってきたのではないかとも思えます。本人は、津波が来たのを確認したので、近くの古川沼の橋が壊れるのを恐れて、一生懸命に走って地域の住民に「津波が来た」と叫んだそうです。津波が来たのを確認しつつ1キロメートルほど走って高台まで逃げたと語っていました。最後の最後になって津波に足元を救われ、引き込まれそうになったのですが、高田高校の野球部の生徒に助けられたといっていました。

大地震により松原地内の地盤が陥没するなど、松の木の根元は津波が迫ったころには浮いたような状態のものもあったのではと想像されます。地震で松林そのものがかなりのダメージを受けていたはずです。その直後に大津波が押し寄せてきました。

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