« CSRマガジントップへ
シネマ&ブックレビュー
話題の映画や本を紹介します

『扉をたたく人』 (原題: The Visitor)
2007年/アメリカ映画


本年度の米国アカデミー賞において、バイプレイヤーとして名高いリチャード・ジェンキンスが、主演男優部門にノミネートされたことでも注目を集めた作品。 妻に先立たれた孤独な大学教授であるウォルターは、ふとしたトラブルから中東出身の青年タレクと出会い、ジャンベという太鼓に触れることで、徐々に心を開いてゆく――。舞台は、9.11テロ以降、移民の取り締まりを強化したアメリカの東部。ある日、地下鉄の無賃乗車というあらぬ嫌疑をかけられてしまったタレクは、移民帰化局に身柄を拘束されてしまう。その場に居合わせながら、ことの重大さを認識できず何もできなかったウォルターは、知り合いの弁護士に頼んで、タレクを釈放するため尽力するのだが――。

この映画を観終わって、じわじわと思い出した。なぜ私はトランクにパッキングするとき、シャンプーなどの液体物を100ml以下の容器に入れ替えているのか――入れ替えなければならないのかということを。あるいは、ある国の入国審査では、セキュリティで靴までも脱がされたこととかを。さすがにあのときは、「テロリストよ、頼むからパンツ爆弾は作らないでくれ!」というヴォネガットの諧謔が、わたしの心願とシンクロした瞬間でもあった。 タレクと出会う前のウォルターは、空港の検査員のように能面で、提出期限を守れなかった学生のレポートを、その理由を訊ねることなく、無下に受け取らない。この強烈な印象を残す冒頭のエピソードは、拘束されたタレクの面接のため移民帰化局に足を運び、あまりに理不尽な対応を受けたウォルターが激昂するシーンにつながるのだけれども。 ハリウッド映画の主人公のほとんどが男性でコーカソイドなのは、〈ハリウッド社会〉ひいては〈米国社会〉の表象に過ぎず、その実、人物設定の置換が作品の内容に何の影響も与えないのだが、本作の主人公ウォルターのジェンダー、人種、職業といった設定は、絶対に置換が不可能なものだ。

〈あの日〉を境にアメリカでは、地下鉄のような生活圏でも、空港のセキュリティチェックのようなことが日常化しているらしい。そして、その厳格な検査や尋問の対象となるのは主に、“あの”ハイジャック犯たちと顔が似ていると思われただけの人たちでもある。タレクがそうであったように。この「疑わしきは排除」の考え方は、どこかで観たことがあると思ったら、あの『マイノリティ・リポート』で描かれた近未来社会だった。本作が、あの極端な超管理社会にリンクしてしまうアメリカって何だ。 旅行の際には、条件反射的に液体物を規定の容器に移し替えているパブロフの犬のような私でも、その実、液体物の持ち込み容量の制限が、もはやテロやハイジャックを防止する有効な手立てではないことに、かなり自覚的だったりもする。しかし…。権力を行使する側にいたウォルターが、権力を行使される側に立つことで気付く不条理、込み上げてくる憤り。しかし…。もはや一個人にはどうすることもできない「大きな抗し難いシステム」に対し、ウォルターは――タレクが拘置された現場である――地下鉄のプラットホームで、ジャンベを激しく打つことでプロテストする――それしかできない自分を責めるように。 「すべての武器を楽器に」といったのは喜納昌吉だが、楽器がプロテストの“武器”にもなり得ることを、この映画はそっと教えくれる。「すべての楽器を武器に」………ってちょっと違うか。 本年度米国アカデミー賞でのノミネートが、主演男優部門だけにとどまったというのは、作品の持つそうした静かなメッセージ性によるものかも知れない。そう穿ちたくなるほどに、この初老教授ウォルターの“成長物語”から、日常に対して気付かされることは少なくないはず。


タカスノブヒロ 1971年、東京都生まれ。フリーランスライター。