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シネマ&ブックレビュー
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『キャピタリズム 〜マネーは踊る〜』
(原題:Capitalism: A Love Story) 2009年/アメリカ映画


自国をこの上なく愛し、その強大な愛ゆえに米国社会の抱える病理に追及の手をゆるめないマイケル・ムーア監督による最新作。銃社会、ブッシュ政権、国民皆保険に続いて、今回取り上げるのは「米国型資本主義」。

本作は、住宅ローンの延滞で差し押さえられた自宅から、いままさに強制退去させられる当人が撮影したショッキングなホームビデオの映像に始まり、そうした差し押さえ住宅の転売ビジネスでガンガン儲けている不動産業者を捉え、何だかとってもおかしなことがまかり通っている背景を探るべく米国現代史(ムーア流)を紐解いてゆく。

現在の貧困層/富裕層の格差が広がったのは、ロナルド・レーガンが大統領になって、メリルリンチの会長が財務長官に就任→富裕層に減税→産業基盤の解体を推進→労働者の賃金が凍結→百万人規模のリストラ…と徐々に格差が広がり、ついには従業員が死亡した場合に、企業側が利益を得る保険の実態にまで迫り――。

もうこれでもかと言わんばかりに、にわかには信じ難いクレイジーな現実が、監督十八番のスピーディーな編集と、アクの強ーいユーモアと、やや感情過多な映像で語られる。とは言え、論旨そのものは、目新しかったり独自なものではなく、ちょうど筆者が読んでいたハワード・ジン〈著〉、R. ステフォフ〈編〉、鳥見真生〈訳〉の『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史〈上/下〉』(あすなろ書房・2009)(※本書はもともと1980年に発表した著書を、ヤングアダルト向けに編集したもの)などにも、いくつか本作と重複する指摘があったりもした。

しかし、どうにも腑に落ちないのは、本来なら資本主義の旨味をじゅるじゅると強欲に啜り続ける〈搾取する側〉に向けられるべき批判が、「資本主義というシステムはもともと少数が利益を得るべく設定されている」という結論に行き着くまでの説明が疎かになっているためで、本作の観客はこの結論をすんなり共有したのだろうか。
というのも、〈米国型資本主義〉という枠組みの中でも、従業員全員がオーナーで発言権があり給料も同額、かつ利益を上げているという2企業の事例を紹介したのだから、そのへんを掘り下げても、現行の経済構造でも〈いまのよう〉にならないあり方が提示できたのではないだろうか。

社会主義国ソ連の崩壊で資本主義は一見「勝ち組」のように見えたものだけど、いまやその資本主義は行き詰まりを見せ…というところまでは分かっても、〈資本主義〉それ自体が悪なのか、資本主義を推進するやり方が間違っていたのか、ナニ主義だろうとそれを悪利用する人間が悪なのか…なんて自問しながら観ていたら、神父になりたかったというムーア監督の〈性悪説〉に則った後半ぐらいから、だんだん取り残されてしまった。

前作『シッコ SiCKO』のラストでは、倒壊したワールドトレードセンターから生存者を救うべくボランティアとして参加した男性が、そのとき吸い込んだ灰燼の影響で肺を悪くし、現行の米国国内の医療制度では充分なケアが受けられず、社会主義国であるキューバで手厚い医療を受けたのでした。めでたしめでたし――というトンでもない皮肉がラストを飾るのだけど、独裁や粛清などのない社会主義や、貧困層/富裕層の格差がない「健全な」資本主義って幻想なのだろうか。だとすれば、社会主義だって「ソ連型」ではなく、字義通りの意味で実現した別の歴史を辿っていたなら――と考えると、新しい枠組みの構築と同時に、既存の経済構造(システム)の違ったあり方の検証こそが必要な気がした、「Capitalism」とタイトルに冠するのであれば。

本作は、制作している途中で〈チェンジ〉し始める米国をオバマ政権誕生で見てしまったムーア監督の希望がラストを飾るだけに、劇場を後にしたときの〈現実〉との落差に思わず眩暈を覚えてしまった。エンドロールを見終わったあと、この不景気の真冬の街を、風に吹かれながら帰路に着くのは、あまりにも辛かった。なんて。


タカスノブヒロ 1971年、東京都生まれ。フリーランスライター。