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シネマ&ブックレビュー
長坂寿久の映画考現学
今月から始まる新シリーズ「長坂寿久の映画考現学」では毎回、映画から今の企業や社会を読み解きます。第1回は話題作『アバター』です。
長坂寿久の映画考現学-1
『アバター』は何故売れるのか ? 〜〜そのシナリオの浅さ・貧しさの研究〜〜
『アバター』
(ジェームズ・キャメロン監督/2010年/米国映画)


話題のこの映画を、期待をもって観に行った。ここ1〜2年の間に3D技術は大きく進歩した。例えば『ディズニーのクリスマス・キャロル』(09年)や『カールじいさんの空飛ぶ家』(09年)等々、その画像には大いに楽しませてもらった。その流れの中で、『アバター』は3D時代の先駆的アクション映画として新しい映像の世界を拓く、歴史的映画の1つとなるかもしれない。そういう期待であった。

キャメロンは12年前の『タイタニック』(97年)で興行記録を塗り替えたが、『アバター』はそれを瞬く間に超えて、全世界歴代興行収入第1位を達成してしまった。

アカデミー賞では、9部門(作品賞、監督賞等)にノミネートされ、作品賞が本命視されていたが、3部門受賞(美術賞、視覚効果賞、撮影賞)に止まった。作品賞、監督賞はキャスリン・ビグロー監督の『ハート・ロッカー』(脚本賞、編集賞、音響編集賞、録音賞の計6部門獲得)がとり、女性初の監督賞受賞となった。


[ストーリー]

近未来。地球は深刻なエネルギー危機に陥っている。しかし新しいエネルギー源となる鉱石が「パンドラ」という星にあることが分かった。地球に持ち帰ればキロ当たり20億ドルもの価値となる鉱石である。地球人はそれを奪い取るために『アバター』という化身(変身)技術を開発している。主人公は、この星の先住者“ナヴィ”の姿に化身して、自然の中に調和して豊かに生きる人々の生活の中に、スパイとして派遣される。彼の仕事は、彼ら「野蛮人」の心や行動を理解し、鉱石を採掘させるよう説得することである。しかし、その説得工作の成功を待たず、力の論理で「欲しいもの」を奪い取ろうとする勢力が存在する。彼らは鉱床のある巨大な神木や聖地を、その最新兵器で容赦なく攻撃し、破壊していく。こうして先住者ナヴィと地球人との過酷な戦争が始まる・・・。


[アメリカの新しいヒーロー像:国家のためでなく、自分の再生のために“何か”に貢献したい]

アメリカ映画を楽しむポイントの1つに、ヒーロー像の分析がある。元海兵隊員ジェイク(サム・ワシントン)は、いくつかの戦争に出兵して負傷し、車椅子の生活を強いられている。 ベトナム戦争の帰還兵は、『帰郷』(78)や『ディア・ハンター』(78)で描かれたように、精神的に深く傷つけられた。ジェイクのように下半身不随となり車椅子の生活者となった帰還兵は『7月4日に生まれて』(オリバー・ストーン監督、89年)のように、ベトナム反戦運動の旗手となった。アメリカ再生のヒーローとして、当時、スクリーンではそうしたヒーロー像が必要とされた。

現代、つまりアフガン戦争やイラク戦争の時代のヒーロー像は、もう一度アメリカのために貢献させ、それによって再生する帰還兵であるらしい。ジェイクは、ミッションを完了すれば傷ついた脚を再生してくれるという交換条件によって、双子の兄の身代わりとして『アバター』となることを引き受け、異星人との異文化交流に情熱を燃やす。戦争に精神的に傷ついて悩み続けるのでなく、反戦のヒーローでもなく、といって国家のために再度貢献しようとするわけではなく、しかし何かのために貢献したいと考えるヒーロー像である。

確かに、現代のアメリカは製造業では日本や中国に遅れをとり、金融産業では崩壊直前の状態といえるかもしれない。しかし、情報・通信技術や金融力では、依然として圧倒的な競争力をもっている。70年代のように、政治力(ウォーターゲート事件等)、経済力(日本の追い上げによる製造業の後退等)、軍事力(ベトナムでの敗北等)の翳りを背景に、社会的失望感や悲観論が蔓延した時代とは異なる。そうか、現在のアメリカが求めているヒーロー像とはジェイクのような奴なのかもしれないと何となく納得する。

そのため、導入部分では、アバター(化身)となって自由な足を取り戻したジェイクが、嬉しくてたまらずに、よろよろとしながらも外に駆け出していく姿に、素直に共感できた。 好感の持てる出だしだと感じつつも、アメリカのヒーローとは、相変わらず人の意見や制止を聞かずに、自分勝手にドンドン突き進む独善的性格であることに、ヤレヤレと思ったりもする。


[企業に『戦争権』が認められる未来とは・・・企業は国家を超えたのか]

ジェイクを雇ったのは国家(政府)ではなく、「企業」である。この企業が異星人との交流を進めるため「アバター(化身)」技術を開発してきたのだ。そして驚くべきことに、この企業が最先端科学兵器をもって戦争を始めるのである。

地球を救うエネルギー資源とはいえ、この星の先住者たちから資源を奪うための侵略戦争を、企業が一方的に始めるのだ。戦争は中世から「傭兵」に頼ってきた。近代の国民国家になって、戦争は国民の徴兵によって行われるようになったが、第二次世界大戦後は再び「戦争の下請け化」の時代へと向かってきた。そして、ついにアフガン戦争、さらにイラク戦争では「戦争の民営化」が本格的に進められてきたのである。 この点については、次号で紹介しようと思うが、この『アバター』の時代が、戦争の民営化の時代からさらに進展して、企業に「戦争権」そのものが与えられている時代であるらしいことに驚かざるを得ない。企業に戦争権を与えるとは、一体どんな時代、どんな社会を想定しているのだろうか。

今や政府(国家)もグローバルな企業活動を規制できないほどに、企業の力は強大になってしまっている。それは確かに現実であるが、その行く末は、企業が国家と同じように、略奪のための侵略戦争を自由に始められる時代になってゆくというブラックユーモアなのだろうか。現代の地球では、やっと聖戦論が許されなくなり、国連の安全保障理事会の決議があった場合のみ戦争を起こすことができるというルールが形成され始めている。その時代の中で、地球外惑星の「原住民/野蛮人」が相手であれば、企業に戦争権がある未来という、恐ろしい映画であることに思い至ってしまう。


[描かれない先住者の生活と日々のいとなみ:一体何を食べて生きているのだろう]

冒頭は、色彩豊かでかつ鮮やかで、綺麗で、なかなかすばらしい風景を背景に、快調にスタートするかのように見えた映画にも、いろいろな問題点が見えてくる。風景は美しく、映像も楽しめるのだが、しかしこの風景のアイディアはすでに見たことあるなと感じるようになり、さらに映画が進むにしたがって、何となく違和感が広がっていく。

1つは、日本アニメの影響を強く感じることである。『風の谷のナウシカ』(86)、『天空の城ラピュタ』(86)、『もののけ姫』(97)の、宮崎アニメで使われたイメージ。また、『攻殻機動隊』(士郎政宗作、押井守監督、95)からの影響も読みとれる。それが「どこかで観た風景」である。しかしこれ自身は一向に構わない。問題はシナリオである。アメリカ大陸(という星)へ、先住者のアメリカインディアンを皆殺しつつ侵略していったアメリカの歴史のファンタジー版に過ぎないと気づいてしまうのである。過去の歴史への思いや反省など微塵もない映画である。
危機がくると、皆が祭壇を取り囲んで地べたに座り、体を横に揺らし、両手を広げて祈る。祭壇では巫女のような人が体をくねらせて踊っているのが見える。もう決して描かれなくなった「野蛮人」であるアメリカインディアンの姿と、寸分も違わない。あるいは、ターザン映画でのアフリカの“土人”たちの動きや姿と、どんな差違があるのだろうか。


[描かれない先住者の精神性(スピリチュアリティ):エイワの生命のネットワークとは何だったのか]

この映画を観て、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(ケビン・コスナー監督、90年)を思い出す人も多いにちがいない。91年のアカデミー賞作品賞をとった映画である。開拓時代にアメリカインディアンの生活の中に入っていった白人の視点から、インディアンの人々の生活を白人側と同等の価値をもつものとして尊重し、いとおしんだ映画である。それまでのアメリカ映画に登場するインディアン居留地の風景は、陰気で汚く凶暴で、何か邪悪なものがいるかのような野蛮人の風景としてあり、この映画のような美しいインディアン集落を映画で観るのは初めてだった。
『アバター』は、描かれる風景としての映像こそ多様で想像力に富んでいて美しいが、そこに住む人々の心の豊かさや精神性(スピリチュアリティ)は、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』に比べて、あまりにも貧しい。第1、この映画には先住者ナヴィの人々の生活は一切描かれない。ヒーローの修行のために、ナヴィの女性が自然の中を華麗に移動しつつ、美しく深い自然の姿を紹介するが、ナヴィたちが何を食べて生きているのか、家族の毎日の営みはどのようなものであるのか、キャメロンはそういうことにはまったく関心がないらしい。

この映画の中で唯一ファンタジーを感じることができたのは、「エイワ」(平和/HEIWAをフランス語読みさせたものだろうか)である。「エイワ」は惑星全体を精神的にネットワーク化している大いなるもの(スピリチュアルで神的なもの)である。この惑星の人々、ナヴィたちは、「エイワ」によって守られているという安心感に包まれて生活しており、エイワによって過去(先祖)とつながり、自分も生き続けると考えている。地球人のグレース(シガニー・ウィーバー)が死によってエイワにつながったことによって、グレースの過去(地球で起こった環境破壊など)がエイワによって吸収され、エイワはネットワークとしての惑星全体を動員して(動物たちも動員して)、地球人に対抗する力を持ったと見ることもできるだろう。

しかし、「エイワ」のネットワークを、もっと心にしみる、意味あるものとして描いてほしかった。戦闘員であった女性パイロットが、途中で「こんな攻撃はもうやめた」と考えたことが「エイワ」の力であったら、別のシナリオが展開できたかもしれない。たとえ最後はハリウッド映画として「ドンパチごっこ」をするにしても・・・。


[ブッシュ時代のシナリオ:市場主義とマッチョイズムと暴力の輸出]

この映画の限界は、前作『タイタニック』と同様に、シナリオの詰めの中途半端さにあるといえよう。『タイタニック』は自立しようとする女性の純愛物語として仕上げてあるが、実際はマッチョ映画であった。マッチョ映画とは女を「ものにする」手管を男に教えてくれる映画のことであり、この映画では、「トラスト・ミー」と強引に言い続ければ女の愛を獲得できるというお話であった。女性の視点で見れば、束縛を拒否して自分の生き方を選択する、自立のプロセスを描いた映画として制作したつもりかもしれないが、結局は女性の「自立演技」映画にすぎない。ヒロインは自分自身の力で幸福になるのではなく、男に好かれるには自立した女性を演じなさいと教えてくれる映画である。

『アバター』でも、同様のことが指摘できる。異なる文化を持つ人々と生きる時代にあって、そこで求められる思想や哲学(他者とは何か)について突きつめて思考することを全く怠っている。ナヴィの生活や食事を想像することも、新しい異文化像を想像することも放棄されている。さらに、『タイタニック』と同様、女性は男より低い存在として位置付けられているのもすごく気になった。

生命の木が倒される苦しみも、表面的にしか描くことができない。そもそも、先住者との、「共生」についてまったく配慮されていない、あるいはもともと模索されていない。21世紀の映画としては、この点が致命的であると思う。

『タイタニック』の制作には、90年代の最長期の好景気に湧くアメリカ、それによって保守化するアメリカが背景にあったが、『アバター』はブッシュ時代のブッシュ的発想をベースにシナリオが作られ、オバマへ「チェンジ」したアメリカの新しい時代は全く反映されていない。キャメロンは、ブッシュ時代を背景に作ったシナリオを、今さら調整するのは面倒だと考えたのだろうか。あるいは芸術家がもっているはずの人間への哲学に、そもそも関心のない人なのかもしれない。


[パンドラの箱を開けた地球人:思わずアインシュタインの言葉を思い出す...]

映画が終りに近づくにつれ、どんどん落胆していくのだが、とくに最後のシーンには失望感が極致に達する。心底がっかりである。敗北した地球人は捕虜となり、地球に強制送還される。そして、彼らが宇宙船に搭乗するのを、ナヴィたちは銃を構えて監視しているのである。

エネルギー資源を略奪するためにやって来た地球人が、この「パンドラ」に残したものは何だったのだろうか。地球人が彼らに与えた『運命の衝撃』(アラン・ムーアヘッド)とは、弓矢の武器から銃器へ発展し、その銃器で地球人を脅しつけることである。地球人がこの惑星にもたらした唯一のものは、「暴力」であった。

この映画の後の「パンドラ」の世界を思うと実につらくなる。彼らは、これから、地球人のように、この惑星で部族同士の戦争を始める歴史を開始することになるのだろう。パンドラは完全に地球人に汚染されてしまった。将来はまったく悲惨となり、自然を破壊した地球の過程を、彼らもまた辿るのだろうと感じてしまう。それよりも、まもなく地球側は連合軍を組んで、さらなる最先端の科学兵器を大量に持ち込んで、この星に襲いかかってくるのであろうか。
そのような悲惨な過程を見越して、この惑星を「パンドラ」と命名したのであれば、これは実はすごい映画なのかもしれないと思いたくなる。「こんな、力の論理のやり方ではだめだよ」という警鐘を鳴らしていることになる。しかし、そのように観る力を与えてくれる台詞やシーンはこの映画の中にはない。映画は芸術であると同時に「娯楽」である。娯楽として観る大多数の人には、終盤の撃ち合いにスカッとし、困難な闘いに立ち上がって勝利したヒーローの姿に「感動」するように、誘導されていく仕掛けとなっている。

「問題を生み出したのと同じレベルの意識では、その問題を解決することはできない」というアインシュタインの言葉はよく知られている。エネルギー問題、地球環境問題、マルチカルチュラリズム(多文化)による文化摩擦時代などを踏まえ、21世紀にこそこの言葉は力を持つべきだろう。
こうした問題を扱っているにもかかわらず、ナヴィたちの「闘い」は、結局「問題を招いたのと同じ枠組」から一歩も外に出ていない。それが『アバター』という映画である。この映画には未来への希望がない。もちろん、すべての映画に希望を提示することを期待しているわけではないが、ここには未来へ向かっての新しい「枠組み」はまったくなく、「共生」も模索されていないのである。
新時代の思考、哲学的思考を放棄したこの映画のシナリオには、心底落胆する。これは監督であるキャメロン個人の限界というべきかもしれないが、この映画が讃えられ歴史的大ヒットをする状況こそ、現代の人類が置かれている、市場主義時代の芸術実態なのであろう。
アカデミー賞委員会が、大方の予想を裏切って、この映画に作品賞と監督賞を与えなかったことに、私はアメリカのせめてもの良心を感じた。

ついでながら、映像はたしかに美しいが、3Dでなければならない映画でもなかったと感じた。3Dによる遠近感はあるが、スクリーンから向こう側への遠近感であって、こちら側へ三次元的に迫ってくる映像はほとんどなかった。葉や樹木の精が花粉のように落ちてくるシーンでは、自分にも降り注いでいると感じられたが、身を避けたくなるほど自分の側へ迫ってくるような迫力ある瞬間は体験できなかった。『ジョーズ3』では、食いちぎられた肉体が自分の方に流れてきて、思わず身をよじらされたし、ディズニーランドやユニバーサルスタジオでも、もっと迫力ある立体感を楽しめたのに、『アバター』ではそれが不思議なほどになかった。3Dによる斬新な映像の発見と創造は、まだ本格的には始まっていないのであろうか。

この映画のお勧めキーワード:『I see you』
気に入った台詞があったことも書いておきたい。『I see you』である。 私の中でも、深い言葉として記憶に残るような気がした。「あなたが分かる。あなたの心が見える。あなたが私を愛してくれていることを感じられる。あなたと心を分かち合っていると感じられる」といったような深い意味を感じられる言葉である。 しかし、この言葉の力は映画の中ではほとんど発揮されない。この言葉がぴったりと収まるシナリオの映画こそが、私たちに力を与えてくれることになるだろう。



長坂 寿久(ながさか としひさ)
拓殖大学国際学部教授(国際関係論)。現日本貿易振興機構(ジェトロ)にてシドニー、ニューヨーク、アムステルダム駐在を経て1999年より現職。2009年に長年にわたるオランダ研究と日蘭交流への貢献により、オランダ ライデン大学等より『蘭日賞』を受賞。主要著書として「オランダモデル-制度疲労なき成熟社会」(日本経済新聞社、2000)「オランダを知るための60章」(2007)「NPO発、『市民社会力』−新しい世界モデルへ」(2007)「日本のフェアトレード」(2008)「世界と日本のフェアトレード市場」(2009、いずれも明石書店)等に加えて、映画評論としては「映画で読む21世紀」(明石書店、2002)「映画で読むアメリカ」(朝日文庫、1995)「映画、見てますか〈part1-2〉−スクリーンから読む異文化理解」(文藝春秋、1996)、など。