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シネマ&ブックレビュー
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『悲しみよりもっと 悲しい物語』
2009年/韓国映画 ほか


新しい“優しさ”を体現する人びとの肖像

先日友人が、かつては「道徳」の代表的教材だった日本の童話『泣いた赤鬼』について、昔はただやり過ごしていたのだけど、現在は「友達のために自分を犠牲にすることが正しいことなのだろうか」とか、「自己犠牲精神に溺れても、けっきょく誰も幸せにならないのではないか」と考えるようになったと言った。 その言葉を受け、改めて筆者も「あの話は果たして美談なのだろうか」と思い巡らせていたら、『泣いた赤鬼』の青鬼も真っ青な自己犠牲精神に満ち満ちた“優しい”人々が登場する作品に出合った。

“『ラブストーリー』『私の頭の中の消しゴム』に続く、魂の純愛物語”と謳う『悲しみよりもっと悲しい物語』。不治の病で死期が間近に迫った男が、自分の亡き後、愛する女性の身を案じ、男は女性にとって申し分のない結婚相手として、とある歯科医に目を付け、2人を結婚させようと画策する。その一方で、実は男の容態と悲願を知っていた女性は、男に対する自分の想いを押し込めて、歯科医との結婚に積極的なふりをする。

『悲しみ』同様、登場人物らの言動に何一つ共感できないばかりか、誰一人として感情移入できなかったという意味で、思い出すのは『パレード』だ。ルームシェアする4人の若者たちの近所で連続殺人事件が発生。ある朝、4人とはまるで面識がない男のセックスワーカーが部屋に転がり込んできて、いままで平穏に見えた彼・彼女らの共同生活と関係性が綻び始める…。

『パレード』の登場人物5人は、それぞれ心に闇を抱えているのだが、表面上「見猿、聞か猿、言わ猿」に徹し、あくまでも波風を立てないよう仲良しを演じている。また、『悲しみ』の場合、男は女性を愛し、女性は男を愛しているのにもかかわらず、相手のためによかれと信じ、二人は自らの幸せを二の次にするのだ。あ、痴呆症の夫(父親)に、その妻/長女/長男が、恋人/恋人の娘/恋人の娘の許婚に扮する『やさしい嘘と贈り物』なんてのもあったか。

これら3作品に共通するのは、登場人物がみな「相手を傷つけないようにすることこそ優しさだ」と考える“優しい”人たちであり、彼・彼女らの“優しさ”を成り立たせているのが、比較的恵まれた社会的地位と高い経済力、そして嘘(あるいは黙秘)であるというのは符号なのか何なのか。また、彼・彼女らは外部の集団に対して恐喝や干渉をする一方で、内部の集団に対しては妙に“優しい”。この傾向は、目の前の他人には無関心で、通話の相手にこそ誠意を示すケータイ依存度の高い現代人の肖像にピタリと合致する。

『悲しみ』や『やさしい嘘』の上映中、あちこちからすすり泣きが聞こえた。これらの作品から〈感動〉を読み取る層と、新たな“優しさ”に戸惑いを覚えたIT素人の筆者。これから両者の〈感動〉に対する閾値(いきち:生体の感覚に興奮を生じさせるために必要な刺激の最小値)格差は一層格差が生まれるのだろう、な。

そうそう。『泣いた赤鬼』の「その後」はどうなったのだろう――

赤鬼と人間たちの間を取り持った青鬼は長い長い旅に出かけました。それから何十年もの間、青鬼は、日本全土をはじめ、海を渡ってお隣の韓国や、遠い遠い米国にも足を延ばしました。そして、各地で人間と恋に落ち、家族を持ち、世界中のあちこちで自己犠牲精神に溢れた“優しい”子孫を繁栄させましたとさ。めでたしめでたし―― ………なのか?



タカスノブヒロ 1971年、東京都生まれ。フリーランスライター。


参考作品(□映画/■図書
□「悲しみよりもっと悲しい物語」
□「パレード」(日本/2010年)
□「やさしい嘘と贈り物」(原題:Lovely, Still/アメリカ/2009年)
■『泣いた赤おに』(水星社・1979) 浜田広介〈原作〉, 久木沢玲奈〈脚色〉, 木下恵介〈監修〉 ■『ほんとはこわい「やさしさ社会」』森真一(〈ちくまプリマー新書〉筑摩書房・2008)