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シネマ&ブックレビュー
長坂寿久の映画考現学

長坂寿久の映画考現学-5
『パリ20区、僕たちのクラス』
(ローラン・カンテ監督、2009年、フランス映画)


教育の限界と可能性

全体を通してこの映画は、教師の可能性と限界を描いた映画だ。
教師としての限界=まさに人間としての限界を知るという意味でも恐ろしい。
教師の端くれでもある私にはそう思える。
寛容性の限界、知的限界、そしてエネルギー(体力)の限界---それらを通常は教育のプロとして淡々と努力し、生徒に焦点を充ててこなしていく。
生徒や授業が好きかどうかではなく、プロ(職業)としてやらなければならない。

映画の最後の方で2つの印象的なシーンがある。
学期末の授業でフランソワ先生は「1年間に何を学んだか?」と生徒たちに尋ねる。
いつもチャランポランなエスメラルダが実は「プラトンの『国家論』を読んでソクラテスの対話に感動し、対話の重要性を感じた」と答える。フランソワ先生の教育の成果を示す感動のシーンである。教育の意味と希望が彼女の告白で表明されたのである。

もう1つは、まさにラストシーン。
学年最後の授業が終わり、残った女子生徒アンリエットが「この1年間何も学んでいない」と恐る恐る告白する。それに対して唖然とするフランソワ先生。言葉の専門家であるはずなのに「何かは学んだだろう」とおざなりの一言を言うしかできない。

本来ならフランソワ先生は勇気をもって告白した彼女を抱きしめてもいい位だ。それ程の思いを込めて、教員なら彼女に真剣に向き合うべきであろう。あまりに重要なこの発言に時間をとって彼女の真意を聞き、励ましていいはずでもある。

教室にはさまざまな生徒がいる。自己主張をする生徒。敢えて毅然とだまって先生を威圧する生徒。そしてアンリエットのようにおとなしく授業を聞いてよく勉強していると思える生徒---しかし、彼女は授業を全く理解していないと自分自身で感じていた。

もちろん、アンリエットは「何も学んでいない」と感じるほどに周囲(社会)の森羅万象の大きさを、あるいは問いかける勇気を「学んだ」という解釈もできる。私自身は彼女の不安は学んだ故の不安だと思うが、しかし映画ではフランソワ先生は質問の恐ろしい深さに気づかないままに終わったように見える。

1年間の教育で、“プラトンの『国家論』を読み感じる可能性”と、“何も学ばなかったと心から告白する生徒”、この二つの間に教育の実態、そして意味と可能性があるのだと、この映画は伝える。

“教育の成果(ソクラテスの対話)と非成果(何も学ばなかった)”両極を最後に提示することで、教育現場の実態をともかく見て欲しいという監督の姿勢が伝わってくる。
限界のある教員(人間だから当然だ)と限界だらけの生徒。しかし、両者とも一生懸命生きている存在として描かれている。しかし、より強く残るのは子どもたちの切なさである。


多文化共生問題としての日本への問いかけ

映画『パリ20区、僕たちのクラス』はフランスの教育問題をあえて問いかけない。
「退学」の意味についても問わない。フランソワ先生は頑張っているが、問題を起こしてしまった時に彼を支える仕組みも分からない。地域と学校との関係も分からない。校長先生の役割も不明。保護者との関係も分からない(そもそも保護者への連絡帳はないのか)。子どもたちにとっての利益とは何かを問いかけるわけでもない。

では日本でこの映画を観ることにどんなメッセージがあるのだろうか。
カンテ監督はこの映画の制作意図として次のように述べている。
「社会の反映」であり「小宇宙」である「学校」の現実を知ってほしいのだと。

「子供の背景には、両親の失業や違法滞在といった問題がある。でも、映画は学校がどうあるべきかを訴えようとしたのではない。今、教室で起こりうる出来事を示したつもりだ」教育問題であるよりも、社会を反映する、世界の小宇宙として描きたかったのである。

日本人が感じるべき監督のメッセージは「多文化共生」問題にあるとも感じた。 フランス社会と“多文化”であることは切っても切り離せない。
映画の舞台であるパリ20区は出身国も入り乱れ、経済的にも貧富の差があり、新旧の住民が混在する地域である。そういう「多文化の象徴」として20区の学校が選ばれたのである。
実は日本も今やこの教室と同じような状況にあることに私たちは気づくべきなのだろう。


日本の多文化共生政策とは何か

「多文化」とはマルチカルチュラリズム(multi-culturalism)の多文化主義からきている。
「共生」とは「他者と共に生きる」という哲学の基本概念から取ったのであろう。
誰が言い出したかはともかく、どういうわけか「多文化」という言葉が官製用語としても浸透しつつあり、2000年代の中頃からほとんどの都道府県で「多文化共生」に関する研究会が設置され、政策提言が行われている。

都道府県の政策に呼応して各地で多文化共生に取り組む市民社会団体(NPO)も次第に増えているようだ。私の大学では卒論が必須だが、2年に1人位の学生がこの問題(在日外国人の教育や多文化共生など)を卒論テーマとしている。卒論ではこの問題に取り組むNPOへのインタビューを設定するのだが、そうしたNPOをみつけるのが結構大変なのである。東京都だと各区に1〜2団体ほどだ。今年の6月に茨城県での多文化共生に関する会議に講師として招かれた際には、「多文化共生」に取り組む関係団体が思ったよりも多いと感じたが、それでもまだ団体や関わる人々は依然少な過ぎるのが実態である。

各都道府県における「多文化共生」研究会の多くは、研究『目標』を「お互いの文化的違いを認め合い、日本人と外国人が協働して地域社会を支える主体として、それぞれの能力を十分発揮しながら共に生きる、安心・安全で活力ある社会」を達成することとしている。

具体的には、以下のような政策提言を行っている。

  1. コミュニケーション支援: 日本語学習の啓発と支援、外国人児童生徒への日本語指導、多言語等による行政・生活情報の提供、外国人相談体制の充実
  2. 多文化共生地域づくり: 日本社会のルール等の啓発、交流機会の拡大、外国人住民の要望・意見の聴取、キーパーソンを通じた地域づくり
  3. 生活支援: 教育、労働、医療・保健・福祉、居住、防災
  4. 推進体制:多文化共生推進会議の設置、担当部署の設置

まず都道府県の役所の中に「多文化共生」担当セクションを置くという点がまず前進である。それによって日本人以外の異文化の人々とのコミュニケーションができる仕組みを作るのが基本で、さらに中心となるのが学校での教育問題と認識しているようだ。

こうした地方自治体を中心とする日本の多文化共生への取り組みには、NGO・NPOなどからの指摘も含め、さまざまな批判も出ている。主に以下のような点で日本の多文化共生問題は問われている。

1つは、在日朝鮮人など旧植民地出身者への差別問題、アイヌ民族/沖縄の人々への視野が欠けていないかという点。

2つは日本人への自覚教育への視点である。都道府県ごとの報告書には、在日外国人に対して自覚教育を行う必要があるという指摘が目につく。しかし、実際には「開発教育(注)」と同様に、北(先進国)の人々の理解(自覚教育)なしに南北問題は解決しないように、自覚教育が必要であるのは(在日外国人よりも、むしろ)日本人側のはずである。
[注:開発教育とは] 開発途上国の教育問題(教育開発)ではなく、「私たちひとりひとりが、開発をめぐるさまざまな問題を理解し、望ましい開発のあり方を考え、共に生きることのできる公正な地球社会づくりに参加することをねらいとした教育活動」(開発教育協会)、つまり先進国の私たち自身の教育の問題です。 開発教育協会サイトはコチラ→

3つは、「多文化共生」とは現代の同化主義あるいは新しいマイノリティ政策ではないかという指摘である。「多文化共生」という言葉は、マジョリティ側---言い換えれば先進国や多数派民族---が生み出した言葉であるため、発想と視点に基本的な限界と誤解の発生が懸念される、という指摘である。

4つは、多文化共生は「多民族共生」をどう扱うのか。そうした厳しい視野がもたれているのかという問いかけである。

さらに5点目として、「多文化共生」を構造的問題としてとらえているかという指摘である。対等性を文化のみに限定し、参政権や就労問題(在日外国人の多くは非正規労働力)などの政治・経済的格差問題はおいてきぼりにされているのではないか。マイノリティが負わされている政治的・社会的・経済的ハンディキャップへの対応という構造的アプローチを政策としてとろうとしていないのではないか。

6点目は5点目とつながる問題だが、社会構造問題として取り組むべき「多文化共生」について、日本では集団間の摩擦問題として取り組んでいるのではないかという指摘である。地域に異文化の人々が入ってきて地域社会内で摩擦を起こすのではないかという視点である。摩擦問題としてとらえると、結果として在日外国人の取締りや監視強化策にのみ政策が特化していくことになりかねない。

7点目として、その結果、日本では、摩擦と構造問題の中間策としての多言語提供措置の導入/日本語学習機会の提供にのみ政策の焦点が当てられている傾向に陥っている。

「多文化主義(多文化共生)」は世界的な問題、世界と繋がっている課題である。日本の地域問題であるだけでなく、世界の課題とドッキングしている国内問題なのである。自治体での取り組みも国際的つながりの中で捉えていく(ネットワーク)必要がある。

また「多文化共生」というテーマは、「他者」と共に生きるというテーマである。
本来、私たちが生きることの生き方の基本につながる問題である。
マルチカルチュラリズムとはマジョリティも多文化の中の一つであり、お互いの文化を大切にし合いながら、対等な関係の中で共に新しい文化・生活を創造していこうという概念である。そこには人間性への「尊重」「尊敬」「誇り」と「共存」とがなければならない。

こうした指摘を踏まえて考えると、日本の「多文化共生」への理解や取組みはまだ底の浅いもののように思える。結果として、現在の日本の多文化共生政策は、地方自治体問題として封印されているのではないか、これが8点目の指摘である。

「多文化共生」の問題については各「地域」ですら、まだ目覚めてはいない(問題として認識されていない)。地域で生じている問題が地域において無視されている状況にある。“学校の問題”がまさしくその典型例である。

日本では学校は“地域の中に存在していない”。つまり、地域に支えられていない。
地域の人々は生徒が地域社会の中で問題を起こすと(例えばコンビニ近くで学生たちが集団で座り続けて“タムロ”していたり、オートバ事故を起こした場合などでも)、“学校の教育不行き届き”として、学校に責任をとらせ、処理させようとする。自分たちも地域の一人として、学校(教育)を支えるという考えはとっくに喪失してしまっている。

映画『パリ20区、僕たちのクラス』における「多文化の小宇宙」としての『教室』と、日本の実態を兼ね合わせると、日本の将来は薄ら寒くなる感じがする。この映画のように多様な文化の人々の個性を尊重するという前提の教室も先生も、日本にはまだまったく準備されていない。もしこの映画を観て他人事と思えるなら、それほどに私たち日本人の国際感覚は疎いのだといえよう。


企業のCSR担当者への一言:日本も「多文化共生」問題を意識するとき
日本の各地で自治体とNPOは「多文化共生」問題に取り組んでいます。
しかしながら国際問題であり地域の問題である「多文化共生」というテーマについて、企業が協働している事例が依然としてきわめて少ない状況にあります。

小売店ネットワーク等をもつ企業は、地域との共生のために自然災害や環境問題等への協力にかなり力を入れるようになっていますが、「多文化共生」問題への取り組みはとても遅れていると感じます。企業もCSRの一環として、地域における多文化共生への取り組みに関わることを検討してみる時期にきていると思います。



長坂 寿久(ながさか としひさ)
拓殖大学国際学部教授(国際関係論)。現日本貿易振興機構(ジェトロ)にてシドニー、ニューヨーク、アムステルダム駐在を経て1999年より現職。2009年に長年にわたるオランダ研究と日蘭交流への貢献により、オランダ ライデン大学等より『蘭日賞』を受賞。主要著書として「オランダモデル-制度疲労なき成熟社会」(日本経済新聞社、2000)「オランダを知るための60章」(2007)「NPO発、『市民社会力』−新しい世界モデルへ」(2007)「日本のフェアトレード」(2008)「世界と日本のフェアトレード市場」(2009、いずれも明石書店)等に加えて、映画評論としては「映画で読む21世紀」(明石書店、2002)「映画で読むアメリカ」(朝日文庫、1995)「映画、見てますか〈part1-2〉−スクリーンから読む異文化理解」(文藝春秋、1996)、など。