シネマ&ブックレビュー 長坂寿久の映画考現学 |
2009年のカンヌ映画祭でフランス映画として21年振りに最高賞の「パルム・ドール」を獲得した。審査委員長のショーン・ペンは「作品は完璧に一体化されている。演技、脚本、挑発、寛大さすべてが魔法だ」と評した。とくに子どもたち全員の“教室の空気を創りあげるリアルな演技”には驚く。表現方法に新しい地平を拓いた映画ではと感じさせる。
この映画は、あくまでも劇映画と事前に知らなければ、すばらしいドキュメンタリー映画と勘違いするに違いない。生徒役は実在するパリ10区の学校の生徒たちで、1年間のワークショップで演技指導を受け、全員が自分とは異なるキャラクターをシナリオに従って演じた。あまりにもその自然で見事な演技にドキュメンタリーを見ているような感覚に陥る。
サウンドトラックは一切ない。教室での授業風景がほとんどで、先生や生徒のプライベートな生活、屋外描写も一切描かず。時々学校内の移動や教員室の風景が入る程度だ。
内容面でも、先生と生徒の間にはセンチメンタリズムは一切ない。感動のストーリーもない。しかし画面は厳しい課題を突きつける。最後には、今やどこにでもある「時代の現実」を描いた映画であることに気づかされる。
冒頭のシーン、新学期が始まる前の先生たちのミーティング。
新任教師を前に「手強い生徒たちです」と古参の教師が呟き、「先生方の根性に期待します」と校長が言う。生徒のプロフィール見ながら、前任教師が「問題なし」「問題あり」「要注意」などと新任教師に注意を与える。
パリ20区のフランソワーズ・ドルト中学校。
移民者の多い地域で、アフリカ系、イスラム系、アジア系など出身国も生い立ちも異なる生徒たちが集まる。恐らくレベルの低い問題校、地元でも教育熱心な家庭では、子どもを私学へ入れるか、この中学への入学を避けて引っ越すに違いない。
ある教員は「馬鹿どもを相手に小学校レベルから教えなきゃならないのは耐えられない、教員なんかやってられない」と愚痴をこぼす。そんな中学である。
この学校で4年目、フランス語(国語)を教えるフランソワ先生(フランソワ・べゴドー)が担当する4年3組。13〜15歳の24人の生徒。
生徒たちは、日常会話としてのフランス語ならほぼ不自由なく使えるが、動詞の活用や文語で使われる接続法の活用、抽象的な単語は十分な理解ができない状況にある。
母親がフランス語を話せず、家庭では母語を話す子どももいるようだ。
しかし、生徒たちは元気で、すぐざわめく。教師のちょっとした言い間違いを嬉々として指摘し、言葉の選択への違和感を主張し、自分の意見や感情を自由に発言する。
ある日の授業では、言葉の受取り方の違いが明らかになっていく。
もともとフランス語の「チーズの風味」は「おいしい」=“良い”イメージだが、移民してきたマイノリティの子どもたちには「チーズ=白人のクサい匂い」だ。
また、ある生徒は先生の例文では「何故白人っぽい名前ばかりが出てくるのか」と詰問する。生徒たちの名前はクンパ、ラバ、ナシム、ブバカール、ウェイ、チーフェイ、ビュラック、アガム、ダラ等々、いわゆる“フランス人っぽい名前”は見当たらない。
文法の半過去を教えようとすると、きちんとした言葉を知らない子どもたちは、そんな言葉は「聞いたことがない、今どき、おばあちゃんだって使わない」と反発する。
しかしフラソワ先生はこうした生徒たちの上げ足取り的な言葉をその都度拾い上げ、言葉を掘り下げることで生徒たちに考えさせる。観客はこうした生徒と向き合う誠実で真剣な態度に好感をもつに違いない。
「国語」はその国で生きるための言葉である。
言葉は他者とのコミュニケーションに必須であり、社会で生き抜く手段でもある。
生徒たちの言葉を使った“生きた学習”に、政府の決めた教科書に従って知識を詰め込む授業が中心とならざるを得ない日本と異なる、“フランスの教育制度のよさ”を感じる。
同じく生徒と真剣に向き合う教員が日本にもいるに違いないと思いつつも、真剣勝負なフランソワ先生の教育姿勢や手法から学べることがありそうだと期待したくなってくる。