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シネマ&ブックレビュー
長坂寿久の映画考現学


長坂寿久の映画考現学-5
『パリ20区、僕たちのクラス』
(ローラン・カンテ監督、2009年、フランス映画)


フランスの教育制度に戸惑う

一方、この映画では、フランスの教育システムを知らない私たち日本人がびっくりしたり、解釈の難しい面もある。

例えば、地域の第三者も参加する---動議にかけられた生徒はほぼ自動的に退学処分となることが分かっている---懲罰委員会。

ルールに従わない者に対する厳しい懲罰主義があるフランスだけに、映画では日本では考えられない理由で生徒は簡単に退学させられるようだ。日本の方がはるかに過保護である。
また、退学処分を決めた学校は生徒に次の学校を紹介するのだが、どうやらフランスでは転校をひとつの対症療法的な手段として有効と考えているらしい。他校を退学になって転入してきた生徒が、特に問題も起こさず溶け込んでいるらしい様子も描かれている。

また、各生徒の成績を教師たちの合議制で総合評価する「成績会議」に生徒代表が出席する場面にも驚かされる。

マルチステークホルダー(多様な利害関係者)が参加する民主主義の原則に頑固に基づいたシステムだろうが、そもそも成績会議での生徒代表の態度が悪すぎるのに---教室内とは異なる「代表者」だからか---先生たちは全く注意しない。
さらに“プライバシー保護の原則”を十分理解しているはずの生徒代表たちから、個別生徒への先生方の評価が伝わってしまい、とんでもない問題へと発展していくことになる。

“教師の制止を聞かずに教室を出ていっただけで退学処分になってしまう教育システム”、“先生の本音が生徒に筒抜けになる教育システム”の問題点が弾劾されているようだ。


羨ましいほどの生徒たちの発言力

こうして教師と生徒との衝突が表面化するにも関わらず、映画が進むにつれて私は正直羨ましく思った。「こんなすばらしい生徒たちを担当できるなんて、フランソワ先生は何と幸せな教師なのだろう。」

生徒たちの必死で誠実な主張や生き方の方に次第に感情移入している自分に気づくのだ。 一方で、生徒たちへの感情移入の深まりと共に、すばらしい先生と思えたフランソワ先生の教師としての限界もみえてくる。

“こんな生徒たちと授業ができたら”と思う理由の一つは、(逆説的だが)生徒たちは教師の言うことを本当に良く素直に聞くのだ。質問に手を上げるし、質問の順番を待っている。内職や居眠りや携帯やゲームに耽っている生徒はいない。不登校の生徒もいなければ、よく欠席する生徒もいないようだ。私語もコントロールの範囲だ。

自己紹介文を書く際には反発する子どもが出てくるが「13歳の私に語ることはない」「沈黙より軽い言葉は発するな」「僕のことは僕にしか分からない」と主張する子どもたちの理由は(例え屁理屈としても)正当である。

私は日本の中学や高校の実態は知らないので教室の実態比較について書くことはできない。しかし、高校の先生から聞く限り、落ちこぼれ校の生徒の実態はこんな素直なものではないらしい。手をあげて発言の順番を待つように指導するのに数カ月かかる。手をあげた生徒の指名の順番を間違えると、“俺スルーかよう”と騒ぎだす始末だという。
大学では学生も教員のいうことは結構素直に聞いてくれる。しかし、教員が緊張感を失くすと私語や内職や居眠りや携帯はやりたい放題だと思う(逆に、そうさせない魅力的授業ができるかどうかが教員のチャレンジである)。

フランソワ先生が羨ましいのは、生徒たちが自分の意見をいう点だ。
教師との双方向のコミュニケーションがとれる生徒たちであることだ。
生徒とこうした丁々発止で授業できることは何とうれしいことだろうと思ったのである。
日本では学生を指名しても『別にイイ!』『何もナイス』『大丈夫です(“質問ありません”の意)』。そうした訓練を小中高で受けてきたかのようにワンパターン。もちろんなんとか質問を絞り出そうと努力する学生もいるが、授業を深める確かな質問はまれだ。
「社会科学に正解はない」「自分の考えを言ってみることが正解だ」と言っても出てこない。恐らく「これまでの義務教育=“正解しか言ってはいけない”」成果なのかもしれない。


教師の生徒、双方の限界の臨界点で爆発が起きる

この映画の教室で起こっていることは、先生と生徒の「言葉の格闘技」ではない。
言葉の専門家の教師と(フランス語という)国語すら十分話せない生徒たちとの「言葉のぶつかり合いによる誤解の格闘技」だ。

誠実で必死な授業風景に期待し「言葉の格闘技」に感動すら感じていた観客の私は、徐々にフランソワ先生が“生徒たちの言葉を上手にあしらって楽しんでいる”、授業に自己満足、過信していると感じ始める。(もし映画が意図的に主役のベゴドーに演じさせたのだとすれば、すばらしい演技だ)
観客(私自身)が、フランソワ先生への違和感を抱きはじめた頃---映画の中の生徒たちも同様に感じ始めていたに違いない---事件が起き、一気にラストへと話が進んでいく。

生徒代表(エスメラルダとルイーズ)も出席する「成績会議」で、フランソワ先生は問題児である男子生徒スレイマンについて(母親がフランス語を話せない家庭環境も含めて)「能力の限界」と表現してしまい、エスメラルダとルイーズがスレイマンに告げ口する。授業中に非難を浴びたフランソワ先生は、成績会議でのエスメラルダとルイーズの不真面目な態度こそ「ペタス(下品な女)のすること」と不用意に発言し、語彙が少ない子どもたちは俗語の「娼婦」の意味にしかとらえず騒ぎだす。怒ったスレイマンも教室を飛び出そうとしたはずみで女生徒の顔にケガをさせ、懲罰委員会で退学処分が告げられる。

一貫して言葉の大切さを生徒たちに教えてきたフランソワ先生は、一連の出来事の中で、言葉の意味の厳密さと多様性というトラップ(罠)に自分自身が嵌まることになる。
一人歩きしてしまった「能力の限界」と「ペタス」。何故、先生は人間性を否定する可能性をもつこの2つの言葉をうかつにも使ってしまったのだろうか。

言葉は使う人の人生、生活環境、人間性全てを反映する。
人間は多様な言葉を使用するが、一定の自分のシソーラス(thesaurus/類語系列)をつくり上げている。自分の人生経験と関係ない言葉は言葉として出てこないのである。
そのことを誰よりも「国語」の先生ならそれをよく知っているはずである。
上手の手から水がこぼれる如く、つい“白人で中間層以上”のフランソワ先生の人間性の限界が表出したのかもしれない。