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シネマ&ブックレビュー
長坂寿久の映画考現学

長坂寿久の映画考現学-2
〜戦争と市民社会の役割を考える〜
アメリカは“チェンジ”のオバマを選んだ。 もうイラク戦争の反省なんてうんざりだ...

『ハート・ロッカー』
(キャスリン・ビグロー監督、2008年、アメリカ映画)


[ストーリー]
2004年のイラク、バグダッド郊外。アメリカ軍の爆発物処理班中隊のリーダーに就任したウイリアム・ジェームズ二等軍曹(ジェレミー・レナー)は死への恐怖を全く感じないかのごとく任務を続け、そんなジェームズに補佐官たちは不安を募らせていく。


「他者(敵)」と向き合わない戦争映画:命は懸けるけれど心の殻は閉じたまま

戦争映画である。にもかかわらず、「敵」については一切描かれない。
主人公ジェームズ二等軍曹の徹底した自己中心主義の視点から、自分のことだけが描かれる。政治性も時代性も人間性もない。同僚の兵士との人間(友情)関係の発展もない。葛藤することも、罪悪感も、何も描かれない。実に乾いた映画である。

ジェームズは人間的感情を欠落させた存在である。しかし、主人公の感情が少しだけ動いた様子が描かれる部分がある。兵舎の前でCDを売り、サッカーをする少年ベッカーとの関係である。
ジェームズにとっての「人間的感情」は、ベッカーにだけ向けられていて、普遍的人間存在への尊重とは異なる。一種の気まぐれヒューマニズムのようなものである。知り合いだけは人間に見えるので守ったり大切にしたりするけれど、あとの人間たちは風景やものにすぎない。いかにもアメリカ的といいたいが、実は現代の私たち日本人にもそれはあてはまる。直接の知人以外は風景でしかない人間関係の時代に、日本の私たちは生きているのではないだろうか。

ベッカーと、民家で突然向かい合ってしまった老人だけが、イラクで出会った「血の通う人間」であるが、その描き方は表面をなでただけで終わってしまう。そしてその他のイラク人は、彼にとって風景でしかない。あるいはテロリスト側の連中でしかない。

同僚と殴り合うシーンもある。人間的感情の発露によって喧嘩するわけではない。殴り合う、フィジカルな刺激のみでしか、他者とコミュニケートできない人間ということを示しているかのようだ。

この映画で監督は何を描きたかったのだろう。何度考えても不思議な思いにとらわれる。主人公のストイックさと、他者とのコミュニケーションをまったく欠いた「アメリカ人」の姿を描きたかったのか。戦争とは何かという政治的メッセージは何故、意図的に排除されたのだろうか。

戦争映画ではもちろん、一方の兵士の視点が中心となる。しかし、同時にどんなことがあっても「他者」(敵)の存在に気づかされる。他者について考えることを避けられないのが戦争である。敵という異文化(異文化を認められないからこそ敵になってしまうのだが)や、戦争している時代背景、あるいは戦争をする(させる)構造や、そして少なくとも人を殺し合う人間という生き物の(非)人間性に気づいていく。それが戦争映画である。しかし、この映画にはそれらの視点がまったくない。ないことがテーマとなっているのだと感じる。

戦争は「麻薬」であると冒頭にテロップが出てくる。最後に主人公は38日間の勤務を終え故国に帰るが、すぐに再び365日の勤務を開始するシーンで終わる。彼が爆弾処理という死と直面する「ゲーム」の中毒にかかった麻薬ジャンキーであることを象徴して終わる。

ジェームズという人間は、市井の日常の中では生きられない。いわば崩壊した人格である。しかし、自分の命を懸けているから、組織とか「他者」との折り合いとかを無視して、自分のやりたいことを貫徹しても許される。動機や影響やそういったことをすべて捨象して、そういう人間を英雄として描くことによって、私たちに思考の停止を求めているのである。命を懸けている人間は美しい。それに異論を唱えてはいけない。私たちはこういった人間心理へのトリックに陥り勝ちである。それがこの映画の最大の欺瞞だと、私は感じた。

思考を停止させずに、この映画を見続けてみよう。
彼は何のために、何と戦っているのか。映画ではそれが分からない。イラク戦争の「終結」後、市街のいたるところに残された、あるいは仕掛けられ続けている爆弾を、体を張って処理しているのは分かる。しかし、それはバグダッドの市民のためなのか、アメリカの「国益」のためなのか。あるいは単に「極限の緊張」を味わうためなのか。

ジェ−ムズという人間を肯定的に描いたのか、否定的に描いたのか。そこが分かれ目なのだが、もちろん上記の心理トリックを使うことによって、肯定的に描いた形となっている。

主人公は徹底的な自己中心主義者である。『アバター』の主人公の自己中心性など、彼に比べたらヤワなものとさえいえる。あくまでも自分の殻に閉じ籠もり続ける。しかし、その自己中心主義者が、新しいヒーロー像なのである。それは現代のアメリカそのものなのだろうか。