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シネマ&ブックレビュー
長坂寿久の映画考現学

長坂寿久の映画考現学-2
『ハート・ロッカー』
(キャスリン・ビグロー監督、2008年、アメリカ映画)


「引き裂かれたアメリカ」から、「あいまいな殻に閉じこもるアメリカ」へ

2003年のアカデミー賞(2002年の映画)について、「引き裂かれたアメリカ人」という文章を書いたことがある(『連合』2003年5月号)。この年、2つのタイプのアメリカ人像が登場した。一方は、作品賞の『シカゴ』(ロブ・マーシャル監督)や、ドキュメンタリー賞の『ボーリング・フォー・コロンバイン』(マイケル・ムーア監督)にみるアメリカ人、他方は監督賞(ロマン・ポランスキー)と主演男優賞(エイドリアン・プロディ)を取った『戦場のピアニスト』や、主演女優賞(ニコール・キッドマン)の『めぐりあう時間たち』(スティーブン・ダルドリー監督)に登場するアメリカ人である。この2つのアメリカ人像は、あまりにもタイプが異なる。

前者は人間への思いや痛みを欠落させ、疎外と自尊心という強迫観念によって自己中心主義で突き進むアメリカ人であり、後者は人間への深い思いと痛みを分かち合いうるアメリカ人である。この2つの映画の傾向から、引き裂かれているアメリカを感じたのである。

そして今、オバマの時代になった。アメリカは一つのアメリカへの道を歩いているのだろうか。『アバター』や『ハート・ロッカー』、『18歳の肖像』、『マイレージ・マイライフ』などのアカデミー賞関係の映画から感じるアメリカの姿からは、その行方は見えない。アメリカがこれからどこへ行くのか、その方向性さえ、今のオバマから読み取ることはできなくなり、実にあいまいな時代をアメリカは迎えている。

ブッシュ大統領(当時)がイラク戦争を始めたとき、アメリカ国民の85%以上が賛成した。イラクへの戦争に反対した下院議員は裏切り者呼ばわりされるような瞬間烈風が吹いたのだ。しかし、その後、大量破壊兵器(核兵器や化学兵器)の保持などというウソの情報で塗り固めて侵攻していったことを知るに従い、アメリカ人はブッシュを批判し、イラク戦争を恥じるようになった。『大いなる陰謀』(ロバート・レッドフォード監督、2007)等々、イラク戦争を批判する映画も作られ、そして、「チェンジ」を標榜するオバマを大統領として選んだ。

オバマが大統領になって以降、『ブッシュ』(オリバー・ストーン監督、2008)などイラク戦争を批判し、否定的に描いた反戦映画が4本制作されたが、いずれもヒットしなかったといわれている。アメリカの大衆は、オバマを選んだことによって、イラク戦争への葛藤や罪悪感に決着をつけたつもりでいるのではないだろうか。イラク戦争への批判に飽き飽きしており、むしろ苛立っているのかもしれない。かつてイラク侵攻を支持してしまった人々も、オバマを選ぶことによって免罪符を買ったように感じるようになったのかもしれない。

この映画がアカデミー賞作品賞までに評価されたのはなぜだろうか。他に優れた作品がなかったこともあろうとは思うが、本質的には、イラク戦争への今日的総括が土台にあるのではないだろうか。イラク撤退を含めて何とか対応するというオバマを選んだ今、今さら戦争を過ちだったと批判したり、罪悪感をもったりせず、今この瞬間も命を懸けてイラクで闘っているアメリカ兵士という、ヒーロー映画を求めているのではないだろうか。ヒーローがいる。だからその他の面倒なことは何も言わないでくれと、殻に籠もろうとしているのかもしれない。そのように感じさせられた。

そしてこんな戦場でこんな仕事をしていれば、主人公のような破壊的人間になっても当然だし、主人公のような人間でなければ全うできないだろうと、主人公に同情心をもって自分を同化させることができるのであろう。しかも、イラク戦争に突き進んだ責任、あるいはテロリストを作り出す構造への思考は停止することができる。この映画を観ている間、アメリカ人もそして日本人も、「イラク戦争に責任のある自分」という命題から解放されるのである。

それにしても疲れる映画である。画面は基本的に全面的なアップ。時々遠景とスローモーションのカットが挿入されるといった感じである。それに手振れ映像で緊迫感を出しているのだが、船酔い感覚に襲われて気分が悪くなりそうな映画である。そのような映像も「思考停止」を助長するのかもしれない。


ポスト「対テロ戦争」・・・新しい戦争の最前線は市民の日常と爆弾処理兵

この映画が新しい点は、戦争において爆弾処理班の兵士が主人公となっていることである。そして、時代背景や戦争相手や政治がまったく登場しない。爆弾解体処理の緊迫した場面でありさえすれば、舞台がイラク戦争である必要はないのかもしれないとさえ感じる。ベトナム戦争でも、朝鮮戦争でも、ベトナム戦争でも、第二次世界大戦でも、あるいはニューヨークの街中でもいいのではないか。

しかし、映画の迫力から解放されて外に出ると、イラク戦争だからこそ爆弾処理兵が主人公になり得たのだと気づくことになる。イラク戦争はブッシュ大統領がウソをついて始めた戦争だが、まさに戦争史においていろいろな意味で新しい時代をもたらした戦争である。

歴史的である理由の一つは、爆弾処理兵が最前線に立つことになった初めての戦争だということである。「対テロ戦争」とは何かということである。爆弾テロは人々のいる都市/街で行われる。多くの人がそれによって被害を受けることが、テロリストには効果があるからである。それ故、爆弾処理も人々がいる街中で行われる。

爆弾が仕掛けられているらしいという通報があると、彼らは出動していく。設置個所を発見し、即座にそのメカニズムを判断し、配線を切断し無力化し処理する。判断を間違えれば爆発し自分も命を奪われることになる。爆弾に近づき、爆破の配線のメカニズムを調べるにはロボットも使われるが、どの配線を切るかを決定し、爆弾を手にして配線を切断するのは人間である。

爆弾が発見されると、道路は米兵たちによって閉鎖され、通行禁止となり、爆弾処理兵は、自分のチームと周囲の米兵たちによって遠巻きに監視を受け、狙撃から守られる。 砂漠での戦争なら、爆弾を見つけたら遠くから射撃して爆破してしまうのが一番処理し易いのに違いない。しかし、対テロ戦争では爆弾は街中に仕組まれ、爆発すれば住民を殺傷し、家々に多くの被害を与え、日常生活が疎外される。そのため配線を切るという人間の処理が必要となる。

冒頭の爆弾処理シーンでは、爆弾処理はうまくいきそうになるが、時限装置となる携帯電話を見逃したために、リーダーは死亡する。その後の国連ビルでの爆弾処理では、何処かからの狙撃で爆弾が仕組まれた車が炎上する。そうした襲撃の恐れの中で爆弾処理班は仕事をする。

周囲の住民は爆弾処理班の仕事をアパートの屋上や各階の部屋から顔を出して眺め始め、人が集まってくる。手持ちのDVDカメラで映像をとる者もいる。アルカイダは爆弾処理に失敗し、全てが吹き飛ぶ瞬間の映像を撮ってインターネットに流し宣伝に利用している。国連ビルでの処理では、隣のビルでビデオカメラを回すイラク人がいる。単なる興味で撮影しているのだろうか。しかしアルカイダかもしれない。処理に時間がかかると見物人は次第に数を増し、統制が難しくなり、危険が一層増していく。こうした周囲のイラク人の不気味さを活用して緊迫感を盛り上げていく。同時に、イラクの市民のだれもがテロリストであるかもしれないという疑念の中で、携帯電話を持っているだけで狙撃の対象にもなってしまうのである。

こうした街中に仕掛けられた爆弾処理こそ、現代の戦争の最前線なのである。まさに、対テロ戦争としてのイラク戦争だからこそ、爆弾処理兵がヒーローになる映画が誕生したのである。しかし、暴発によって命を失うイラクの人々とアメリカ兵の命とは、果たして「等しく大切なもの」として描かれているだろうか。

現代の戦争では、プロの兵隊たちは、街中の堅固な兵舎に守られている。爆弾処理の勤務を終えるとオフの時間になり、自分の部屋(個室)でくつろぐ。シャワーがあり、酒がある。出勤−退勤−自由時間。ある意味では、サラリーマンの日常のようでもある。これが現代の戦争なのであろうか。


戦争の構造的変化をもたらしたイラク戦争――小型武器で死ぬのは子どもや女性たち

ポスト対テロ戦争の時代になって、従来の戦争とは異なる多くの新しい状況が起こっている。イラク戦争はまさに戦争に歴史的構造的変化をもたらした象徴的な戦争である。

戦争は、塹壕掘りや戦車や大砲によるプロの兵隊同士による前線での戦争から、核爆弾や化学兵器などの大量破壊兵器による戦争の時代へと移行したが、イラク戦争は現代の戦争が街中での小型武器による戦争の時代になったことを示している。

兵隊たちはプロであるので、街中にいても狙撃を避ける術を訓練されている。現代の戦争の最前線は、爆弾処理兵であると共に、現地側では街中に出て遊ぶ子どもたちや、買物に出る主婦たちであり、防御の仕方を知らない彼らが無防備に殺されることになる。

現代の戦争とは、殺し合いと日常生活とが同じ時空間で連続している状態である。アメリカ兵にとって出会うイラク人とは、休憩時間に兵舎の前に出ると、そこで兵隊たちに土産を売る店や、サッカーボールをもってアメリカ兵と遊びたいと思ってやってくる子どもたちであり、彼らが「日常の延長」の中で命を落としていくのである。

「小型武器」(SALW=Small Arms and Light Weapons)とは、

  1. 一人で使用可能な小火器(Small Arms)で、リボルバーやピストル、ライフル、カービン銃、サブマシンガン、ライフルや軽機関銃など
  2. 数人(2、3人がチームとなって)で運搬・使用が可能な軽兵器(Light Weapons)で、重機関銃、携帯アンダーバーレル、携帯型対空砲対戦車砲等々、そして
  3. 弾薬・爆発物の3種類を総称したものである。

国連の報告書によると、1990年代に起こった49の武力紛争のうち、46は小型武器だけが使用された紛争であった。小型武器の使用の結果、毎年50万人の人々が死に、その90%は非武装市民であり、そのうちの80%が女性と子どもたちである。90年代には400万人の人々が紛争に巻き込まれて亡くなった。過去10年間で200万人の子どもが殺害され、600万の人々が重度の障害を負うことになった。小型武器は1人が死ぬごとに、3人が負傷するといわれる。

アナン国連事務総長(当時)は、この報告書の発表の時に、小型武器はまさに「事実上の大量破壊兵器」になっていると述べている。

現在では、95カ国において600以上の企業で合法的に製造され、少なくとも6億3900万もの小型武器が世界に出回っており、うち60%近くが民間人によって合法的に所持されているという。小型武器への関心の高まりとは裏腹に、小型武器取引は2000年〜06年の間に28%増加したと報告されている。輸出国はアメリカが第1位、次いでイタリア、ドイツ、ブラジル、オーストリア、ベルギー等となっている。通関統計にはないが、中国とロシアも大輸出国である。小型武器の輸入国をみると、アメリカ、フランス、日本、カナダ、韓国等となっている。小型武器輸入(金額ベース)では、日本は世界第3位、輸出で第9位だという(2001年度)現実がある。