歴史的な背景からお話しましょう。フランスでもホームレスの存在はかなり昔からありました。フランスでは、19世紀あるいはそれ以前から風来坊のように定まった住所がなく、簡単な荷物だけを持って歩き回る層がありました。こうした人たちは最初農業などに従事していましたが、凶作に見舞われるとか、家が火事にあったなどの理由から小さな荷物を持ってあてもなく放浪し、食べ物を恵んでもらうような生活をしていました。一般の人たちはかなりの警戒心を持っていました。彼らは危険な存在ということで、あてもなく歩くのを禁じたり、物をもらうことを禁じる法律ができました。
皆さんはヴィクトル・ユーゴの『レ・ミゼラブル』という小説を読んだことがあるかもしれません。ジャン・バルジャンは、たった一個のパンを盗んだという罪で流刑に科せられます。物をもらう場合、その人は本当にお金がなかったのか、身体検査をされます。わずかでもお金を持っていれば犯罪とされました。ただ、身なりが汚いというだけで、この人は物をもらうに違いないと逮捕されるケースもありました。物乞いをすることを禁じるという法律がなくなったのは1993年のことでした。当時は物乞いが減って町ではほとんど見ることがなかったということもあります。
20世紀に入ると農村から都市に移動するという現象が見られました。村から町に仕事を見つけに出かけるというのもこうした現象の1つです。資格がなくても町では工場などで簡単に仕事が見つかると思われていました。 そのうち、田舎から町に出かけてきた人たちを放置するのではなく、宿泊施設を提供しようということになりました。ただし、たった一晩だけです。翌朝の6時にはそこから追い立てられ、町で仕事を探すことになります。
フランスはキリスト教の国ということで、こうした人たちに救いの手を差し伸べるということも行われました。カソリックやプロテスタントの人たちが、宿泊施設や食べ物を提供したのです。
第二次大戦後、かなりの家屋が破壊されたため、住む家をなくした人たちの多くは路上生活を強いられました。1955年のフランスは非常に寒い冬でした。ピエール神父という人は、ラジオを通じて路上生活者に救いの手を差し伸べてほしいと語りました。それに対して、多くの人から反響がありました。行政の支援も満足なものにならず、いろいろな団体が連携しました。宗教団体の活動に国も影響を受け、重い腰を上げて住宅の提供などを行い、社会サービスの充実に積極的に対応するようになりました。
1930年代は、栄光の30年代と呼ばれるように、いろいろな建設プロジェクトもさかんになり、国の発展にも貢献しました。しかし、よいことは長く続かず、1990年代に入るとワーキングプアが登場してきました。一生懸命に仕事をしても得られる収入は生活を満足させるには不十分でした。それと平行して多くの外国人の流入という問題が起きました。過去の植民地の人々がフランスに職を求めてやってくるようになりました。ベルリンの壁の崩壊の後は、東欧のロシアやブルガリアからもやってきましたし、今日ではモンゴル、パキスタン、インドなどからも外国人が流入しています。
社会的な変化によって、家族の絆も薄れていきました。以前は大家族主義があたりまえだったのが、いまは次第に核家族化し、家族がお互いを頼りにできないという構造が生まれています。
私は皆さんにお聞きしたい。社会から排除されるとはどのようなことかと。労働組合や政治家は、家もない、仕事もない、権利を持つこともできない、健康もない、そんなすべてがないないずくめの人たちをウィザアウトと呼んでいます。
こうした人たちこそ排除された人たちなのです。人間関係だけではありません。物質的な満足だけでなく、精神的な満足もない人たちです。ウィザアウトされた人々には、「排除」があり、「終焉化」があり、「不安定化」があり、「貧困化」の4つの要素があると考えます。
だれもこれらを望んでいる人はいません。毎日、不安だらけの日々が続きます。 路上生活が長ければ長いほど、心身ともに破壊が続きます。こうした人たちは、その日暮らしです。メディアが報道をし、支援者たちが立ち上がることで政治家も動き始めます。その結果、
などが打ち出されました。
サミュ・ソシアルの活動は、こうした人々の暮らしを守るため、シェルターを提供すること、健康を保証することから始めました。私たちの具体的な活動については、後でもう一度お話しましょう。