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シネマ&ブックレビュー
長坂寿久の映画考現学


長坂寿久の映画考現学-3
『マイレージ・マイライフ(原題UP IN THE AIR)』
(ジェイソン・ライトマン監督、2009年)


●新人スタッフが開発する低コストの首切りシステム
この映画のもう一つの見どころは、クルーニーに絡む2人の女性だ。したたかな彼女たちの生き方に、本音を語られたと思う人も結構いるのではないだろうか。この女性たちに比べると、ライアンは実は不器用な中年男に過ぎないのかもしれない。

その一人、新人のナタリーの新提案をマニュアル化するために、ライアンは彼女を「実地研修」に連れていくように命じられる。2人連れの出張が始まり、ロード・ムービーとなる。
ナタリーの提案は実に興味深い。各地での面談方式を止めて、本社の事務所からインターネットのチャット機能を使って解雇を通告しようというのである。双方がモニター画面を観ながら対話すれば全国へ出張の必要がなくなり、大幅なコスト削減となる。
社長はこの提案に強い関心を示し、新システムを導入するべく、彼女を採用してしまう。

ナタリーの存在はアメリカの雇用形態の特色の一つを示している。彼女は大学で修士を取り、優秀な成績を収めた新米エリート職員の象徴のように、ビジネススーツに身を包み、長い髪をきりっと束ねて、一分の隙もない出で立ちである。
年齢が上の、仕事に熟達した人々の前でも臆することなく、勢いよく自信たっぷりに自説を展開する。(経験がまったくないのだから、教科書どおりの理屈を理路整然と話す以外に取り柄のないのも当然だが・・・)

インターネットの開発によって、アメリカはここまで機械的で非人間的手法が提案されるような国になったのだろうか。しかも、そうした新方式を、大学を出たばかりの若いエリートが当然のように提案する。現代のアメリカを感じさせられる姿である。


[アメリカ人は、拝金主義からステイタス主義へ移行するのか?]

カード社会、そしてネット社会。ポイント(プレミアム)の積み上げによるサービスの階層化が、新しい「身分」を生み出している。また、インターネットの「便利さ」が、生身の人間関係を希薄にし、他者との関わりを表面的なテクニックでこなそうとする傾向を強めている。そんな現代を見事に風刺している映画である。
(ネットで解雇通告するシステムを開発するナタリーは、携帯メールで恋人から別れを告げられて、ライアンとアレックスの前で泣きじゃくる。これは何とも皮肉な場面であった。)

また、この映画はマイレージ制度という新しいステイタス主義を生きがいとする現代人の姿を描いている。マイレージが貯まって得をした感じという庶民のレベルではなく、マイレージをたくさん貯めることがステイタスに直結している状況を、この映画は題材としているのだ。現代のアメリカ人は、お金よりもステイタスに関心をもち、ステイタスを追求するようになったことを示す象徴的・先駆的映画なのかもしれない。

もちろんステイタスは金銭でも獲得できる。しかし、金の亡者ではなく(金持ちになるために人生の大半の時間を使うのではなく)、颯爽と自分の生き方を楽しむためにステイタスを求めるという生き方について描いたという意味で、先駆的と感じる。
ライアンの人生観にも考えさせられる。現代人には説得力があるのだろうか。彼はこう語る。「結婚しても結局のところ最後は老人ホームに入り、自分一人で孤独に死んでいく。」どのように愛し合っても、家族を作っても、それは一時のことにすぎず、最後は家族に見捨てられて寂しい余生を送ることになる。だから将来設計をしても意味などないと考えている。そこで面倒なことには背を向け、人間関係もテクニックで処理し、深入りしない生き方を選んでいる。
しかし、人生は結果(終末時)のみが問題なのではなく、プロセスにこそ大切な意味があるはずだ。
ナタリーの問いかけにも、ライアンの返事にも、その視点が欠けている。
実はこの映画は、人生のプロセスを無視するなと語りかけているのではないだろうか。

マイレージに象徴される数字、あるいは○○会社の社員という「肩書」も含めたステイタスを、現代人は確実なものとして求めている。曰く、数字は裏切らないと。しかし、そこには落とし穴がある。本当に裏切らないのは、絆を結んだ人間、あるいは絆を結ぼうというプロセスであるかもしれない。
妹の婚約者は、結婚式を目前にして迷い出す。しかし、ライアンの言葉から絆を求める価値に気づいて、結婚=変化への一歩を踏み出す。
ライアン自身も、成り行きながら彼を説得するという体験をとおして、自分自身の内面に気づき、最後には「つながり」を求めるようになる。

映画の中には、実際にリストラを宣告された経験者のインタビューがところどころに登場する。彼らは異口同音に、解雇を言い渡されて未来が真っ暗になった時、家族や愛する身近な人の支えによって新しい生活を始めることができるようになったと語っている。この映画のメッセージは、こうした人々の言葉によって強く補強され、リアルさを増している。

ナタリーのライフプランは、さらに興味深い。16歳で描いた夢は、「23歳で結婚し,子どもは一人。キャリアを積んで、車はチェロキー」。30歳に近づきつつある今は、「結婚相手は大卒白人、職業は金融関係、犬好きで映画好き、週末アウトドア派」。この線には妥協したくない。34歳のアレックスが望む男性は、「自分より収入が上(そうでないと悲惨)、子ども好き(しかし必須条件ではない)。笑顔がステキなこと(このウエイトは高い)」。
いずれも現実主義者である。自分の相手を「条件」で探そうとしている。ステイタスを追求し、わずらわしさと無縁に颯爽と生きるかっこ良さに憧れているのだが、その本音は語らない(実はアレックスの方がはるかに「宙ぶらりん」な生活をしている。彼女の生き方・性格にいささか興味をもつが、この映画では深くは描かれない)。

マイレージという数字と家族や恋人との絆。人を裏切らず、支えてくれるのはどちらなのか。インターネット通信の宣告システムが導入されれば、ライアンは首を切られるか出張がなくなり、マイレージは一挙に萎んでいく。
人生の安定にはどちらの生き方を選ぶのか。
あるいは、「安定」よりももっと大切なものがあるのか。それに気づいていく映画である。


[日本的経営の終焉――日米解雇比較]

この映画では、解雇通告の対象者は、その企業で長年働き貢献してきた人たちらしい。だからアメリカ企業は直接通告する勇気を持たず、提訴などのトラブルを避けるためにも、専門的通告技術(テクニック)を持ったリストラ宣告業者に依頼するのであろう。日本でもこうした外部宣告人に首切り宣告を発注することがあるのだろうか。

日本の雇用制度は「男子正規労働者」(正職員)を中心に成り立ってきた。
これまで、彼らは「日本的経営」の名の下に守られてきたが、今はそれもリストラの嵐に直面している。正規職員ならば、人事部の管轄下で多くは子会社に天下り、何とか面倒をみてくれる可能性がある。しかし、これは大企業の正職員の場合で、中小企業でのリストラは行き先のない厳しいものであろう。まして、派遣・期間・請負という形で働く「非正規労働者」の解雇通告はまったく苛酷である。

日本の派遣切りは、個別面談の場などなく、紙っぺら一枚で一方的な宣告がなされる。上司に異議を伝えようとすれば、「私は知らない、会社が勝手に決めたことだ」と言われ、納得できないと申し立てる先も不明なままであるし、再就職のための研修の場など、全く用意されない。従来型の労働組合は、非正規の彼らの利益を守ってはくれない。
欧米の最下層の雇用者たちも、同様に違いない。日本と違うのは失業手当か生活保護の支給要件がさほど厳しくないという点であろう。但し、不法移民はもらえない。
欧米でも首切りは上から下まで日常的だが、日本の派遣切りのような雇用調整の対象にされているのは主として不法移民たちだという現実があるからである。