企業とNGO/NPO

人を思いやる心を、日本と世界へ

特定非営利活動法人オペレーション・ブレッシング・ジャパン ドナルド・トムソン代表理事に聞く

オペレーション・ブレッシング・ジャパンは国際NGOの日本組織。震災直後から東北各地でユニークな活動を始め、今後も東北の復興を見守る活動を展開するという。10月半ばに都内で開いた企業向けサポート説明会後、日本組織の代表理事ドナルド・トムソンさんに話を聞いた。

被災地の支援を続けるドナルド・トムソンさん(右端)

お米、眼鏡、漁船— 現地に飛び込んでつかんだ緊急支援ニーズ

Q 国際NGOオペレーション・ブレッシング・インターナショナルとはどのような団体でしようか。また、日本法人はどのような経過の中から生まれたものでしょう。

トムソン: オペレーション・ブレッシング・インターナショナル(OBI)は世界で最も大きなチャリティ団体のひとつです。今もハイチや日本など世界の23か国で災害救援、医療援助、飢餓救済、児童養護、水質改善、地域振興の6つにまたがる支援活動を行っています

OBIは1978年にアメリカ(本部はバージニア州、代表はウィリアム・F・ホラン)で創立され、これまでに2億5,500万人の人々に支援の手を差し伸べてきました。活動実績は全米50州と世界105カ国以上に及び、これまでに総額でおよそ33億ドルの物資や奉仕の規模となっています。

日本における活動は2011年3月11日に発生した東日本大震災の支援から始まりました。日本は先進国だけにこうした支援の対象と見なされてきませんでしたが、震災の被害があまりにも深刻なため、急遽支援の対象としました。

この支援が1年続くのか、2年になるのかは支援を始めた当時は全く検討が付きませんでしたので、初めはOBIの日本支部の活動としてスタートしました。

10月10日に行われたオペレーション・ブレッシング・ジャパンの企業向けサポート説明会

Q 震災直後のコメの配布、あるいはメガネの支給などユニークで素早い対応はわれわれ日本人の常識を超えるところもあります。こうした支援はどのような発想から生まれたものでしょうか。

トムソン: 大震災の直後、私たちはアメリカ本部の要請を受けて交通・通信網が寸断される中、東北での支援活動に着手しました。最初の物資を宮城県塩竃市に届けた翌日、高速道路のサービスエリアで食事をしていると、テレビのニュースで陸前高田市の「パンしかない、ご飯が食べたい」という被災者の声が映し出されました。日本人なら当然の要求です。

私たちはクルマで北に向かい、開いていた奥州市の農協に飛び込み、「コメを買いたい」と相談したところ、高級米しか残っていないということでした。その場で300㎏を購入して陸前高田市の避難所に向かいました。

被災者の方は久しぶりのお米ということで大変喜んでくれました。高級米ですから、きっと特別においしいお米だったかもしれません。その後、宮城県の登米市の農家からお米をトン単位で購入することができるようになり、2トン車で各地に支援するようになりました。

各地で感謝されたコメの支援

被災者への支援は避難所のニーズをいち早くつかむことが大切です。私たちは塩竃市の避難所で被災者のニーズを聞き、「女性の下着がほしい」という切実な声を耳にしました。その頃になると協力者も増えていましたので、女性の下着を届けて喜ばれました。

また、時間の経過とともに避難者の要望も刻々と変わります。私たちは初めて避難所に訪ねる際には、水や食料をもっていき、そこで何が足りないのか聞き出すようにしていました。最初はガソリンや灯油という時期もありましたが、次第に他の団体が支援しないものを支援しようとを考えるようになりました。その1つがメガネです。

避難所に出かけると津波でメガネをなくしたという声がたくさんありました。また、福島第一原子力発電所の周辺から近隣の町に避難した住民に聞くと、避難のストレスから視力が落ち、メガネが合わなくなったという声も多く寄せられていました。

私の子どもの幼稚園時代の父兄に眼鏡屋さんがいました。彼に相談したところ、予算内でできるだけ協力してくれるという話になりました。最初は塩竃市の3つの避難所で市がチラシを撒いてくれました。凄い反響でした。

ある会場には700種類くらいのフレームを持っていきましたが、その日だけで170人が検眼し、フレームを選びました。メガネが完成し、協力してくれた眼鏡屋さんの友人と一緒にメガネを届けに行きましたが、だれもが喜んでくれました。眼鏡屋さん自身も感動していました。メガネの支援は70カ所くらいの避難所で行いました。

被災者のメガネの検眼を行う

Q 一緒に感動できる支援がキーワード化もしれませんね。ほかにも喜ばれた支援があるようですね。

トムソン: 漁民の支援を行いました。塩竃市に出かけ、孤立している島があると聞いたのがきっかけです。日本三景のひとつである松島の一部を構成する浦戸諸島です。カキ養殖などで生計を立てている島ですが、島の半分が津波で甚大な被害を受けていました。半分を復興させることで島全体が日常を取り戻せると考え、支援を決めました。

2011年4月頃からですが、カキやノリ養殖用のロープ、浮き樽、刺し網などの漁具を提供するようになりました。浦戸諸島の漁民の皆さんが宮城県では一番早く復興したのではないでしょうか。県も私たちの支援の成果を認めてくれました。

もう1つ、こちらは2011年の夏頃からですが、中古和船の寄贈を始めました。
今回の震災では津波で生活の糧となる漁船が多く流されていました。漁民の皆さんに話を聞くと「自立には仕事が一番。漁船がほしい」ということでした。

日本の漁船メーカーに聞くと順番待ちの状態でした。東日本にあたってもめどが立たないので静岡県の中古船販売会社に相談し、40隻の中古船を探してもらい、2011年9月に気仙沼市本吉町の日門漁港で40隻の寄贈式を行いました。その後、三陸仕様の新品の和船20隻をアメリカで製造し、同じ浜で翌年3月と5月に寄贈しました。このほか中国で製造した漁船を10隻、さらに中古船20隻を集め、計90隻を本吉町をはじめ、南三陸、東松島、塩竈に寄贈しました。

実は2004年にインドネシアやタイを襲ったスマトラ沖地震でも津波で多くの漁船が流されていました。そのときのOBIの経験も大いに役立ちました。

漁船の寄贈で浜が活気づき、復興が進むことに

息の長い復興支援のためにNPO化

Q 震災から2年半が経過し、多くの支援団体が撤退や支援の打ち切りを行っています。今後、東北地方の復興にはどのような支援が必要と考えられますか。

トムソン: こうした大きな震災の支援は長期間に及びます。最近、被災地に入ると仮設の避難所の責任者たちは、「もう、物は要らない、心の支えが必要だ」と語ります。私たちは心のケアのプログラムとともに、メンタルの専門家などとの連携も始めています。心のケアには、豊かな心をもった人が行くことが必要です。

アートを使ったトールペインティング(白木の家具や小物入れ、箱などにアクリル絵の具で絵を描くこと。開拓時代のアメリカで、古くなった家具やブリキ製品、陶器などを再生させようと彩色して使ったことから広まった)やお茶会などの交流も大切です。被災者の中には、眠れない、髪の毛が抜け落ちるなど、精神的なストレスが原因と思われる症状も多く見られます。

仮設住宅から復興住宅に移る人も出てきましたが、コミュニティの役割がますます大きくなっています。地域の方を訓練して、継続的な心のケアができるようになればとも考えています。

Q 2013年3月にOBJが特定非営利活動法人の認定を受けました。その狙いはどのようなところにありますか。

トムソン: 復興支援には息の長い活動が必要です。現地で腰を据えた活動が必要と考え、2013年3月に宮城県の認定を受けてNPOの資格を取りました。日本においては日本に根差した活動が必要です。また、そうすることで非営利団体としての透明性も担保できると考えています。

CSRマガジンの取材に熱っぽく語るドナルド・トムソン代表理事

Q トムソンさんは日本の生活が長いと聞いています。日本で生活していて、日本におけるNGOやNPOの活動でお気づきになる点がありませんか。

トムソン: 私の父親はオーストラリア人で1955年に宣教師として来日しました。船で横浜に到着した父は、あんパンをかじりながら東北に向かい、青森で日本語を学びました。父の日本語には青森なまりがあります。父はやがて北海道にわたり滝川の近くの赤平で宣教師として暮らしました。ここは日本有数の炭鉱の町でかつて多くの炭鉱労働者が暮らしていました。

母親はイギリス人ですが、二人は北海道で出会いました。私は母親がイギリスに里帰りしたときに生まれ、生後3か月でオーストラリアに向かい、生後6か月で日本に来ました。19歳でアメリカの大学に行き、卒業後に再び日本に戻りました。

その後、日本で結婚して家族もできましたが、38歳でアメリカの大学院に留学し、2年間学びました。この時期にアルバイト的に、OBIの支援する組織のひとつであるキリスト教系の放送局で働きました。それで、OBIのアジア担当者を知るようになったのです。

そんな関係で東日本大震災が起きると、真っ先に連絡が入りました。私が被災地に入るときは常にカメラと一緒でした。映像関係の仕事をしていたこともあるからです。ジャーナリスティックな勘と一枚の写真が大きな力になりました。私の人生経験は、今の仕事をするためにあったと思っています。

家族と一緒に北海度で過ごした少年時代。左端がドナルド・トムソンさん。

私の印象では、日本人は政府に頼りすぎていると思います。なにごとも政府に任せればよいと考えてきたのかもしれませんね。でも今度のような大きな自然災害では、政府にも限界があります。私が各地で知り合った行政の責任者もそれを率直に認めています。塩竃市では、3,000人なら被災者の生活に対処できたかもしれません。しかし、実際には1万人の被災者が押し寄せてきたのです。

NGOやNPOはある種の隙間産業のようなものです。行政だけで埋められない新しい支援のあり方を示しました。

Q企業との連携にも力を注いでいると聞いています。これまでにどのような連携があり、その結果、どのような活動の広がりが生まれていますか。

トムソン: 「和船プロジェクト」を立ち上げる頃、支援活動を強化するために、企業を回って支援を求めようかと考えていました。ちょうどそこにある企業が支援の手を差し伸べてくれました。

日本でビジネスを展開するドイツのソフトウェア会社、SAPジャパンです。「和船プロジェクト」の話をするとそれはいいと大歓迎してくれました。ドイツの本社と相談し予算を確保するとともに、あらゆる面で協力してくれました。アメリカでつくった漁船を三陸海岸まで届けることができたのもSAPの皆さんの支援があったからです。

漁船だけでなく、漁具や冷蔵庫の支援も行われました。私たちはSAPジャパンの社員と漁民たちの交流会なども企画しましたが、とても感動的な交流会になりました。

SAPジャパンについて:
SAPは、世界に130カ国以上の支社を持ち、ドイツに本社を持つエンタープライズ・アプリケーション・ソフトウェアにおけるマーケットリーダーとして、あらゆる業種におけるあらゆる規模の企業を支援しています。SAPジャパンは、エンタープライズ・アプリケーション・ソフトウェアにおけるマーケットリーダーとしてあらゆる業種におけるあらゆる規模の企業を支援しているSAP AGの日本法人として、1992年に設立されました。 お客様がイノベーションを起こすご支援をするために、私たちSAPは、常に最終消費者を意識した、デザインシンキングを用いたSAP独自の方法論とインメモリー、モバイル、クラウドなどの技術を駆使して、お客様のイノベーションをご支援できると確信しています。

SAPジャパンが協力して「義援和船」の進水式を開催

Q最後に今後に向けた抱負を一言お願いします。

トムソン: オペレーション・ブレッシング・ジャパンの役割は、人々の中に息づく思いやりの心を形にすることです。実は世界の中でも日本人ほど他人を思いやる繊細な気持ちをもった国民は数少ないと思います。私たちの復興支援で、彼らが本来持っている“やさしい心”“豊かな心”をもう一度取り戻し、日本だけではなく、世界の人々にも発揮できる日がやってくることを私は心から願っています。

オペレーション・ブレッシング・ジャパンは、チャリティの高い実行率を誇っています。これからも皆さんから寄せられた義援金や物資をできるだけ大切に効率よく使って、一人でも多くの方を支援したいと考えています。(2013年10月)

●特定非営利活動法人オペレーション・ブレッシング・ジャパン

OBJ(オペレーション・ブレッシング・ジャパン)本部
〒981-3328 宮城県黒川郡富谷町上桜木1-37-7
電話022-779-6579
www.objapan.org

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