企業とNGO/NPO

愛国と望郷のはざまで。1人の難民が日本で生きた20年。

映画『異国で生きる』に出演したビルマ人民主化活動家に聞く

軍事政権の弾圧を逃れてたどり着いた日本。そこでの生活も20年を超えた。一人のビルマ人を追いかけた映画『異国に生きる』に静かな共感の輪が広がっている。映画に登場したチョウチョウソーさんを紹介しよう。司会は難民支援協会広報の田中志穂さんが行った。

※映画「異国で生きる」あらすじと、土井敏邦監督メッセージはコチラ

難民申請中の難民が映画に出るということ

田中: 映画『異国に生きる』はこのほど文化庁映画賞(文化記録映画優秀賞)も取りました。日本国内でもこの映画に注目が集まっています。今どのようなお気持ちですか。

チョウ: 映画になった気分は、最初「恥ずかしい」というものでした(笑)。でも、ゆっくり考えたら20年以上も日本で生活していたことが「無駄ではなかった」と思っています。うれしい気持ちもあります。

私たちビルマ難民は政治弾圧の恐れがあり、ビルマで暮らすことができませんでした。ビルマの民主化のために役立つことだけを考えて、異国の地で20年以上もがんばってきました。

この間、日本社会に暮らすことができ感謝で一杯です。日本の社会のためにも何か役に立ちたいと思ってきました。
自由な世界に住むことで勉強になったことも沢山あります。また、この間の生活で、どこに行っても生きて行けるという自信にもなりました。ビルマに帰っても大丈夫です(笑)。

田中: 多くの方が難民として日本に逃れてきています。中には10年、20年と母国に戻れず、日本で生き続ける人も多いのですが、チョウさんが土井敏邦監督から映画を撮りたいと言われたときはどんな気持ちでしたか。

チョウ: 初めはテレビに放送すると言われました。日本に難民申請をした人たちがどのような生活をしているのか、一人の難民に焦点を当てて紹介するという企画です。1998年から1999年にテレビ向けの撮影が行われました。ところが東日本大震災のあと被災地にボランティアで行くと、その場に来ていた土井監督から「映画をつくりましょうか」という提案がありました。

田中: 14年間の密着取材になろうとは想定しなかったわけですね。難民の方がテレビに出るだけでも大変だと思うのですが、映画となるともっと大変だったでしょうね。

チョウ: 私を多くの人が見ることになります。日本の方が名前や顔を知るだけじゃなくて、ビルマの政府の人も見ます。この人はこんな反政府の活動をしているのかと……。ビルマにいる家族や妻も見るかもしれません。家族へのプレッシャーになる可能性もありました。

ただ、私の政治活動はビルマ国内にいるビルマ人のためだと考えてきました。自分自身はどんなことになってもよいと思っていました。家族に相談し、特に父や姉が応援してくれたので、プレッシャーをはねのけることができました。

チョウチョウソーさん(右)と司会の田中志穂さん

難民たちはなぜ被災地支援に行ったのか

田中:難民申請中の人が顔や名前を明かして、メディアに出るということはめったにありません。難民支援協会のウェブにも難民は登場しますが、ほとんど後ろ姿か身体の一部しか写しません。出身国、名前、年齢などの個人情報は明かしません。チョウさんの場合は、東日本大震災のボランティアがきっかけで、映画出演が正式に決まったわけですが、映画の中で奥様のヌエさんが「ビルマ人が被災地支援に行くと聞いて日本人が驚いたのに、驚いた」と語るシーンがありましたね。

チョウ: 震災の後、私たちビルマ人が陸前高田市にボランティアで出かけたときの話ですね。夜出発の準備で荷物をトラックに積んでいると、近所のお好み屋さんのママが「どこに行きますか」と尋ねてきました。「東北の被災地に行く」と答えると「ビルマ人にも被害者がいましたか」と聞かれました。「一人もいない」と答えると、ママさんは驚いて「日本人のためにありがとう」と言ってくれました。

私たちの頭の中には、何人(ナニ人)という感覚はあまりありません。日本に住んでいる私たちは日本社会の一部だと思っているからです。

日本に住むビルマ人たちに声を掛けたら、「行こう! 行こう!」とすぐにまとまりました。お好み屋さんのママには「困った人を助けるのは当たり前」と答えました。ビルマ社会の伝統かもしれませんが……。

田中: 映画の中にもありますが、ビルマの皆さんの連帯感というのはかなり力強いものがあります。在留資格をもった人が多いという背景もあるのかもしれませんが、自分たちで決めたらすぐに役割分担をして、実行するという特徴があります。

実はビルマ人のコミュニティだけでなく、私たちの事務所に支援を求めてくるアフリカ出身者や、トルコのクルド民族などの難民たちからも、被災地を助けたいという声が上がり、大勢がボランティアに行きました。

そんな難民の方のボランティアをしたいという声に応え、難民支援協会でも2011年4月のゴールデンウィークからボランティア派遣を始めました。11月末までに、ウガンダ、ミャンマー(ビルマ)、トルコ(クルド)、エチオピア、スリランカなど、のべ203名の難民が参加しました。

私たち難民も日本社会の一部

田中: 難民たちも日本社会の一部であって、困った人がいれば助けるのは当たり前ということですが、映画タイトル『異国に生きる』についてはどんな感想をお持ちですか。

チョウ: 日本の生活が長いので、生活には慣れてきました。ただ私の中には2つの側面があると思います。ビルマ人から生活の相談を受けたり、同胞である彼らの悩みに応えているときはビルマ人というか、家族と話をしているような気持ちになります。ビルマに戻りたいという気持ちにもなります。また、日本人と一緒に仕事をしたり、話をしていると、自分の街の人たちと話をしているという気持ちです。第二の故郷だと無意識にそう思っています。

田中: 母国はビルマですから、母国に帰りたいという思いを持っている方は多いと思いますが、最近のビルマの民主化の動きの中で、いつ帰るのかと聞かれる機会も増えているのではありませんか。チョーさんご自身、またビルマコミュニティーの皆さんのお気持ちはいかがですか。

チョウ: 2011年8月にビルマのテイン・セイン大統領は海外にいるビルマ人に帰国してよいという発言をしました。正直に申し上げると「うれしい」と思いました。ただ、ビルマ国内の状況はあまり変わっていません。

今年7月に私はビルマ大使館に一時帰国の申請をしました。今日(2013年10月20日時点)までなんの返事もありません。
私たちはビルマのために何ができるのか、自分のこの目で見てきたいのです。しかし、まだ壁が立ちふさがっています。
確かにビルマ国内では複数の週刊誌が発刊されるなど、これまでに比べると言論の自由も前進しています。ただ、20年以上にわたって軍事政権が支配してきており、教育、医療、少数民族の問題など解決しなければならない課題が山積しています。

帰国に立ちはだかる新たな課題

田中: 日本で難民認定された人が帰国するというのは複雑な問題を内包しています。チョウさんのように20年以上も日本で暮らしていても、日本では永住権や国籍を取ることは簡単ではありません。一時帰国して、日本に戻ってくる際に、一定の条件を満たしていないと、戻ってくることが困難になったり、親が帰国した場合、日本で生まれた子どもたちの在留資格がどう確保されるかなど、さまざまな課題があります。

チョウさんは、親戚の方がフランスやニュージーランドにも逃れているそうですが、日本と比較するといかがですか。

チョウ: フランスに兄が、ニュージーランドに姉がいます。現地で難民申請をしました。日本よりも少し生活が楽かもしれません。地域のコミュニティが支援したり、地方の行政も支えてくれるようです。時間が経てば永住権も取れるようです。

日本にいるビルマ人の多くは無国籍状態となっています。ビルマに行くときは大使館にビザを申請しないといけません。
日本政府が発行する「難民旅行証明書」の国籍はミャンマーとなっています。それでもビザが必要です。

田中: 国籍の問題は非常に複雑なのですが、たとえば、チョウさんたち第一世代だけでなく、日本で生まれた二世の子どもたちも同様の問題を持っています。母国の大使館に出世届けが出せず、だからといって日本国籍がもらえるわけではないので、事実上無国籍状態におかれてしまいます。

ここで少し、日本に来る難民についてのお話をします。この図は日本における難民申請者の推移ですが、この数年で大きく増えているのが分かります。2013年は昨年の約2,500人を上回る3,000人以上になると予測しています。

012年に日本で難民として認定された人は18人にすぎません。認定率でいうと1%以下です。これは欧州各国に比べるとかなり低い数字です。申請者でいうとトルコ、ミャンマー、ネパール、パキスタン、スリランカに続いてアフリカの国々が入ってきます。

チョウ: この瞬間も世界各地で多くの難民が生まれています。難民は支援をすればいなくなるわけではありません。現実に今もビルマからの難民が日本に来ています。ビルマと日本は6,000キロメートルも離れていますが、ビルマの問題はビルマ国内だけの問題に終わりません。日本政府もこの問題をいかにして解決すべきか、さらに積極的な発言を続けてほしいと願っています

【映画「異国に生きる」の簡単なあらすじ】
1991年、ビルマ(ミャンマー)軍事政権の弾圧を逃れ、妻を祖国に残し日本に渡ったビルマ人青年。生きるためにレストランで働きながら、祖国で封じられた民主化運動を続ける日々。その後、妻ヌエさんとの再会がかない、2人の亡命生活が始まる。第三国でやっと実現した14年ぶりの老父との再会。その父の死の報にも青年は帰国がかなわなかった。 “祖国の民主化運動”のために望郷の思いを捨て去って20数年。“異国に生きる”ことへの思いがズシリと伝わってくる。2009年度キネマ旬報文化映画ベスト・テン第1位に輝いた『沈黙を破る』、2012年度のベスト・テンで第2位を獲得した『“私”を生きる』の土井敏邦監督が、在日ビルマ人青年を14年の歳月をかけて追い続けたドキュメンタリー映画である。

●映画「異国で生きる」

“自由と豊かさ”を独り占めはできない。
チョウさんの“真っすぐ”な生き方に共感

監督・土井敏邦さんから寄せられたメッセージ

長年、パレスチナを追いかけてきた私が、「在日ビルマ人」を追うことを思い立ったのは、1988年8月のビルマ民主化運動から10周年迎える1998年の夏だった。遠い異国・日本で祖国の民主化のために闘い続けている青年たちの姿に、私はイスラエルの占領下で解放のために闘うパレスチナの青年たちの姿を重ね合わせていた。彼らを支援するNGO「ビルマ市民フォーラム」から紹介された民主化活動家の1人が、チョウチョウソー(チョウ)だった。

日本でのチョウの生活を追ううちに、私が何よりも驚き、心を揺り動かされたのは、その生き方の“真っすぐさ”だった。チョウさんは私のインタビューの中でこう語っている。

「家族や妻に再会するために、なぜ祖国に帰れないのか。私は自分のためだけに生きることもできます。家族のことだけを考えて生きることもできます。日本でただ働いて、お金を貯めて帰国すればいいのです。でも私にはそんな生き方はできないんです。私にとって、とても大切なことは“他人の痛みを感じ取ること”です。私はお金持ちになれるし、自由になることもできます。でもビルマで暮らす同胞たちは自由も豊かさもありません。私だけ、そのチャンスを独り占めすることはできません」

             ☆

その言葉は、イスラエル占領からの解放闘争に参加し、貴重な青春・青年期の十数年を獄中で過ごした後、やっと釈放されたパレスチナ人青年が、語った言葉と驚くほど重なりあっていた。私のインタビューに答えて、その青年はこう言った。
「大切な青春時代を獄中で過ごさなければならなかったことを後悔していないかって? とんでもない。自分がパレスチナの解放のために闘い、自己犠牲したことを誇りに思っています。私の家族もそうです。パレスチナ人として最高の青春時代だったと思います。私の幸せは、私が暮らす社会の中にあるんです」

             ☆

両者に共通するのは“志”の高さとそれを貫く“純粋さ”であり、そして“社会と個人との距離の近さ・関係の深さ”だった。つまり自分の生き方がその社会と、密接に重なり、絡み合っているのである。独裁政権下、占領下という過酷な状況がそうさせるのか、それともビルマやパレスチナが伝統的に育んできた文化、精神的な“土壌”がそういう人生観・価値観を生むのだろうか。そんな彼らの存在は、若者たちが自分の周囲10メートルのことにしか関心を持たなくなったと言われる日本社会の現状の中では、とりわけ新鮮だった。

しかし、異国で生きる現実は厳しい。妻や肉親たちとの別れ、政治難民として異国・日本で生きるための闘い、日本政府の「難民政策」いう厚い壁、そして終わりの見えない異国での民主化運動の闘い……。その中でチョウは揺れ、迷い、苦悩しながら、20年以上も異国・日本で生きてきた。その姿は、私たち日本人に、「社会の『幸せ』を願う“志”と個人の『幸せ』のどちらを優先させるのか」「家族とは何か」「守るべき“国”とは何か」「『愛国』とは何か」そして「“生きる”とはどういうことか」という普遍的なテーマを、私たち日本人に突き付けている。この映画は単に、「在日ビルマ人の民主化活動家の記録」ではない。私たち日本人が自身の“生き方”“在り方”を映し出し、自らに問いかける“映し鏡”なのである。

土井敏邦 Webサイト 

●認定NPO法人難民支援協会

http://www.refugee.or.jp/
日本にいる難民からの年間1万件以上の相談に応えるとともに、専門スタッフが一人ひとりの難民に支援を行っている。さらに制度改善のための政策提言・調査研究、および情報発信を行うなど、日本の難民保護を目的とした総合的に活動している。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の事業実施契約パートナーでもある。

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