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とどけ 被災地の声 !南三陸町の震災後4年を語る。

東日本大震災から4年。被災地では震災の記憶そのものが風化することへの強い懸念が高まっている。新生銀行・朝日生命では、このほど宮城県南三陸町で災害ボランティアセンター長を務める猪又隆弘さんを招いて社員向け特別講演会を開催した。当日の模様をレポートしたい。
南三陸1

被災地の体験を社員・家族で共有しよう

東日本大震災以後、2012年10月より、株式会社新生銀行と朝日生命保険相互会社の両社は互いに連携して、宮城県南三陸町において社員のボランテイア活動を継続してきた。さらに2014年からは、被災地支援活動に関心がありながらも参加できない社員とその家族に向けて、被災地から人を招き、現地の状況を聞く講演会を開いている。2015年1月には2回目の講演会が開催され、社員および家族など約130名が参加した。

1.南三陸町とその被災状況について


宮城県南三陸町 社会福祉協議会事務局長
災害ボランティアセンター長 猪又隆弘氏

センター長

2011年3月11日、老人クラブイベント中に東日本大震災に遭遇。とっさの判断で約327人をその場に残すことを決断し、全員の命を救う。震災直後から南三陸町災害ボランティアセンター長としてボランティアセンター運営を指揮し、約14万3千人のボランティアの受け入れを実現。ボランティアと現地ニーズのマッチングのみにこだわらず、企業からの支援誘致も積極的に取り組み、地元の産業復興にも大きな役割を担っている。現在、志津川地区まちづくり協議会理事兼事務局長も兼務され、その手腕に期待がかかる。


南三陸町は、宮城県北東部の海岸沿いに位置しています。宮城県内の被災地区の中では南三陸、女川、山元の3カ所がとりわけ大きな被害を受けました。県内では13の自治体が被災しましたが、被災状況も異なれば復興の仕方も13通りあります。例えば気仙沼や石巻は大きな港がありますが、南三陸は養殖でなりたっていた町です。

南三陸町は震災前の2011年2月に人口17,666人、世帯数5,362を数えましたが、震災で3,301世帯が全壊・半壊となりました。中でも戸倉地区は被災率83%、志津川地区は78%、全体で62%が一瞬で消えてしまいました。

資料:南三陸町社会福祉協議会

資料:南三陸町社会福祉協議会

資料:南三陸町社会福祉協議会

資料:南三陸町社会福祉協議会

南三陸町は過去にも津波災害を経験しており、1960(昭和35)年のチリ地震津波の際は志津川地区で40名が亡くなっています。そのためコミュニテイごとに毎年訓練をしていました。日本は今後もさまざまな自然災害が起きる可能性がありますが、地震、津波、水害などのマニュアルは別々に用意すべきだと思います。例えば炊き出し訓練、津波の場合はすべて流されますので、行政から物資が届くまで全く炊き出すものがない状態でした。先日も広島で山が崩れましたが、一部の被災と全部の被災では全く異なります。

津波の教訓の1つは使命感を捨てること。公務員、警察官、役場の職員、消防官……使命感があったがために何人も命を落としました。まずは身の保全、逃げて助かってから、何をすべきか考えるべきだと思います。公式には津波は19mですが、もっと高いところもありました。宮城県全体で行方不明者1,200名、そのうち195名が南三陸町です。

高野会館では327名が屋上で助かりました。取り壊すことになった防災庁舎では、津波は屋上のさらに2m上まで押し寄せました。町民・職員等43名が屋上に逃れていましたが、10名がたまたま助かり、33名が亡くなりました。町の危機管理課の人間が情報収集などを行っていたのですが。そのうちの1人が私の女房です。まだ見つかっていません。

資料:南三陸町社会福祉協議会

資料:南三陸町社会福祉協議会

阪神淡路大震災と東日本大震災を比較すると、津波被害が加わった東日本大震災がさらに深刻です。家屋等が津波で全て流されています。津波は、わずか50㎝の高さで人が亡くなります。激流の中で物がぶつかってきたりすれば、ひとたまりもありません。

阪神淡路大震災の場合は、仮設住宅から大阪などの近隣に働きに行くことも可能でしたが、東日本大震災では近隣の石巻や気仙沼も被災しており、80%以上の水産加工業者の雇用が失われました。

阪神淡路大震災では「ボランテイア元年」といわれました。短期の場合は自己完結、自分で食事、交通、宿泊できます。しかし広域の場合はそれが難しいわけです。国が第3次補正予算でボランテイアの皆さんの環境整備のための予算をつけましたので、被災地は受け入れ体制の整備でき、NPO/NGO、個人の皆さんの活動が活性化しました。

今回の東日本大震災は「企業のボランテイア元年」だったと思っています。NPO/NGOは速攻で活動し、地域をまたいで活動します。しかし、1年ぐらいで活動資金の制約も出てきます。震災から4年経つ中で、南三陸では今もいろんな企業の皆さんの支援をいただいています。資金、人員、ノウハウの面で企業の力は大きく、大変感謝をしています。

資料:南三陸町社会福祉協議会

資料:南三陸町社会福祉協議会

2.復興に向けた取り組みと災害ボランテイアセンターの歩み

南三陸町では、今も約2,700戸の仮設住宅があります。ただし、今も学校の校庭に建っていたり、家屋のグレードもバラバラな状況です。プライバシーは保てませんし、お湯炊きや断熱も入っていません。そうした仮設で4年、さらに数年過ごす必要があります。

今、問題となっているのは、高齢者の生活不活発病(編集部注:特定の器官を長期間動かさないでいることによる障害。廃用症候群ともいわれる)です。外に出ないと認知症が進みます。それ以外にもアルコール中毒者やDVの増加、さらに最近問題になっているのは中学生の不登校です。経済活動がうまく行かない中で両親の喧嘩が増えていけば、子どもたちがどう思うか、想像してみてください。

資料:南三陸町社会福祉協議会

資料:南三陸町社会福祉協議会

資料:南三陸町社会福祉協議会

資料:南三陸町社会福祉協議会

家を建てるか、災害公営住宅や防災集団移転推進事業に入るか。被災者たちは岐路に立たされています。高齢者の自殺、孤独死も増えています。阪神淡路大震災の数年後にも同じ状況があったと聞いています。

学校に建っている仮設住宅はいずれ集約し、町営の仮設住宅に移っていただきます。避難所で1回、仮設で1回、集約住宅で3回ぐらい……最終的なコミュニテイを形成できるのは、その後、4回目の災害公営住宅等に移ってからとなります。小さな町でもコミュニテイの再生は難しいのが現状です。

災害公営住宅に入居する方の6割が65歳以上の高齢者です。10年後には空き家になる可能性もあります。一人世帯の高齢者に対する福祉の問題も深刻です。

高台移転計画というのがあります。志津川町を例にとりますと、ボランテイアセンターのある東地区、そして西地区と中央地区の3カ所をかさ上げします。防災庁舎のある地盤は4ⅿ、対岸の商店街があった地域は2年かけて10ⅿかさ上げしないといけません。川と国道の場所を入れ替えて、川の場所を国道に、国道を川にします。水門3カ所を撤去して8.7mの防潮堤を整備します。低地部には住宅再建できませんので町に売ってもらい、多くの被災地は職住分離になり、夜は高台に帰宅するという生活になります。

災害ボランテイアセンターは、個人のボランテイアさん20人が1年間車中泊で協力いただいて設立しました。ただ、情報発信しようにもホームページ1つ立ち上げることもできません。外部の方のスキルが必要となり、月数十万円で外部から3人ほど雇用しました。地元の人間だけで運営しようとすると、被災者がボランテイアとなりますので、体力も持ちません。

資料:南三陸町社会福祉協議会

資料:南三陸町社会福祉協議会

産業支援にも着手しました。東京まで漁業協同組合や商店街の人を連れて企業とコラボしたりもしています。

今、全国から120名の行政マンに応援に来てもらっています。それでもおっつきません。復旧予算、元に戻すための予算はすぐつくのです。復興予算はなかなかつきません。元あった以上に良いものにしようとすると、なかなか許可がでません。東京オリンピックの開催決定で建設関係者などの人手不足に拍車がかかり、入札をかけても落札すらできないという状況もあります。

下の図はボランティア参加者の4年間の推移をまとめたものです。3月11日になってマスコミに取り上げていただくと増える、学生さんの春休み、夏休みなどで増える。月ベースで1年目に5,000人、2年目が3,600人、3年目が2,000人、減少傾向にありますが、今でもこれだけの皆さんが南三陸町に来てくれています。宮城県で今も毎日ボランテイアセンターを運営しているのは南三陸町だけです。個人の皆さんにも来ていただきやすいと思います。

資料:南三陸町社会福祉協議会

資料:南三陸町社会福祉協議会

最近、南三陸町のボランテイアセンターが閉鎖するというマスコミ報道がありました。いったんテントを撤去して、コンテナでの運営となります。12月頃に病院と総合ケアセンターが完成し、その中に私どもボランテイアセンターも入る予定です。

南三陸町には、個人15,000人、企業1,200団体などがこれまでにボランテイアとして参加してくれました。皆さんに提供いただいた労働力は金額にすると5億7千万円。経済効果は7億円といわれていますから、合わせて13億円以上の支援です。

私たちは今年の3月15日にボランテイアの集いを開きます。個人15,000人、企業1,200団体の登録者にご案内を送ったところですが、町をあげて感謝の集いを開きます。ぜひご参加ください。

資料:南三陸町社会福祉協議会

資料:南三陸町社会福祉協議会

3. 町が抱える課題。今、必要とされる支援とは?

南三陸町には、昭和35年のチリ津波もあって、世界で唯一イースター島の石を使ったモアイ像が寄贈されています。こうした目玉を育てながら、町おこししていかないといけません。

資料:南三陸町社会福祉協議会

資料:南三陸町社会福祉協議会

震災前、地域の持ち家率は8割でしたが、今後は5割を切ります。固定資産税は上がりませんし、人口流出で所得税も上がりません。当然、人口減で国からの交付税も下がります。復興資金が終われば町の財政がひっ迫するでしょう。

資料:南三陸町社会福祉協議会

資料:南三陸町社会福祉協議会

観光とかで復興の先進地に変えていなかえればいけません。1つの試みとして、被災地という経験をいかして、防災セミナーの開催を企画しています。現地で被災者がお話することで、震災のリアリテイを感じていただくとともに、防災意識を広げていければと思います。

南三陸町は、海の幸・山の幸も豊富です。心配されるセシウムですが、南三陸は0.05です。除染の基準は0.23以上ですから、放射能の影響は心配ありません。被災地の産品を購入いただく、または南三陸を訪れてもらうことが大きな支援となります。

大学の先生方がすばらしい町のグランドデザインを描いています。ただ、町は復旧から復興に移りつつありますが、仮設住宅から出るにはまだ数年かかります。災害公営住宅も2カ所にあります。しかし、災害公営住宅をコミュニテイ1つに区切ったので、65歳以上の方ばかりで集会所のランニングコストすら維持できません。

これからコミュニテイの区割りをしていきますが、災害公営住宅にすぐ入居できますが、集団移転で上がってくる方とたちと建築年次がそれぞれずれていきます。住宅づくりに2〜3年、町全体のコミュニテイ確定にはもう2〜3年かかります。全体の復興が終わるには数十年かかります。

その間に高齢化が進みます。医療依存度が高い人が増えています。高齢者の方々に仕事を与えて元気な町をつくっていきたいと考えています。医療依存度が高い人を減らすことが町の活性化につながります。

ただ、障害のある方、介護保険を必要とされる方が減ることはないと思っています。そのため福祉の拠点づくりを構想しています。老人、子ども、コミュニテイの皆さんの交流を実現し、デイサービスセンターの復活を目指します。従来ですと普段着でいらして普段着で帰られる。それでは地域の活性化につながりにくい面があります。出かけたら、友人たちとレストランで食事をするというような施設をつくりたい。それを地域住民、子どもたちにも広げて地域の交流の場にしたい。震災前の既存の施設を1カ所に集約し、ワンストップで運営したいと考えています。

資料:南三陸町社会福祉協議会

資料:南三陸町社会福祉協議会

例えば、お母様方が8時間労働したいがパートタイムしかできない、そこで未就学児童を預かります。だいたい3億円ぐらいかかりますが、土地はあります。社会福祉協議会がお借りしてNPOとも協同して運営します。障害者の相談窓口も設けます。ヘルパーやケアマネジャーの拠点を一カ所に設ける、なんとか平成28年度には施設を建てたいと思っています。

被災地の復旧・復興にはいくつものステージがあります。被災当時は、着の身着のまま、食べるか飲むだけで精一杯でした。その後仮設住宅に移り、生活支援が始まりました。今は心のケアも必要となっています。

震災から3年ぐらいまでは、ただ前に進まざるを得ないので後ろを振り返る余裕もありません。しかし、3年も経つと当時を振り返ります。実は私自身も逃げるときにデイサービス利用者のおばあちゃんと認知症のおじいちゃんをお連れしました。一人は助けることができませんでした。流されてしまいました。自分の部下も女房も死んでいます。これが現実です。

私も膝まで津波がきました。3年経つと、それを振り返るのです。おじいさんと目と目が合いながら流されていった、助けられなかったことが悔やまれます。遺体もたくさん見ました。火災現場も見ました。でも、こうやって皆様とお会いすると勇気と元気が出ます。前に進まざるを得ないのだと……。

私自身は人前で泣いたことはありません。25年連れ添った妻はいまだに行方不明ですが、部下の前では泣いたことがありません。南三陸町では死者と行方不明者の合計は824名ですが、1日も早い復興が供養だと思っています。

被災地には緊急雇用というのがあり、国の補助金で単価が高い収入が担保されてきました。これもそろそろ終わります。経済格差も進む、仮設までは一緒、自宅を再建するか、災害公営に入るかで分かれていきます。高齢者にもきついが、中高年齢者も住宅ローンを払っていかなければならないなど生活は決して楽ではありません。

今は、世界の各地や日本全国からいただいた支援とボランティアの方の応援が私たちの財産です。これまでに応援してくれた11,000名の名簿を再登録いただき、3月15日からは南三陸復興応援団いう形で再スタートしました。これからも皆様のご支援をよろしくお願いします。

●南三陸町ボランテイアセンター

http://minamisanrikuvc.com/

●主催者からの一言

南三陸2

株式会社新生銀行 中村行男代表取締役副社長

「震災から4年、南三陸町で何が変わり、何が変わらないのか。この講演会は、私たちに何ができるかを改めて考える機会となりました」

株式会社新生銀行のCSRの取り組みについては

http://www.shinseibank.com/corporate/policy/csr/

南三陸3

朝日生命保険相互会社 山下雅之取締役常務執行役員

「4回ほど南三陸に伺いました。ボランテイア活動に参加できなくとも、話を伺い、家族や周囲の人に伝えることも重要な支援です」

朝日生命保険相互会社のCSRの取り組みについては

http://www.asahi-life.co.jp/company/socie/


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