CSRフラッシュ
異文化とふれあう
第23回大使館員日本語スピーチコンテスト2020コロナ禍で開催が危ぶまれた各国大使館員による日本語スピーチコンテスト。年末のオンライン開催が実現した。23回目となる今年は、8カ国9名が参加し、日本への思いが詰まったスピーチの数々に声援が広がった。受賞者5人のスピーチを届けたい。(2020年12月21日公開)
外務大臣賞
「私と長崎 そして日米宇宙開発」
アメリカ合衆国大使館 ガーヴィー・マッキントッシュ
東京の米国大使館でNASA(アメリカ航空宇宙局)の職員として働いています。大学を卒業後、1994年に長崎に来て英語を教えました。長崎のような歴史のある街に住めたことはとても幸運でした。
長崎には江戸時代に外国との交易が許された唯一の場所、出島があります。一方、米国は第2次世界大戦を終わらせるためとして、1945年8月に長崎に原子爆弾を落とし、長崎の町を完全に破壊しました。
日本に来る前、私は原爆を落とした米国を日本の人たちがどう思っているか、不安でした。でも長崎の人々はとても親切にしてくれました。長崎の人々は、長崎チャンポンや卓袱料理などの郷土料理、カステラで歓迎してくれました。
長崎での思い出はたくさんあります。この経験から、外国の文化や言語を理解することは、人と人の関係を深めるうえでとても大切だと学びました。私の人生にも大きな影響を与えました。
その後、私は国際関係をもっと勉強するために、米国の大学に進学し、卒業後の2003年にNASAに就職し、世界の宇宙機関と協力し、科学の発展に寄与できるよう新たなミッションに就きました。そしてNASA本部で14年間働いた後、2017年に外交官として日本に戻って来ました。いま、長崎で学んだことを活かすため、NASAの駐日代表として活動しています。
私は若いアメリカ人にもっと日本に来て、新しい体験をしてほしいと思っています。日本で勉強し、働くこと、人と人の関係を築くこと、言葉や文化を知ることは、友情を育みます。日本の若者もアメリカやほかの国で視野を広げてください。
宇宙開発は、平和のシンボルです。宇宙開発における日米関係は、NASAにとっても重要です。日本は国際宇宙ステーションに多くの技術的貢献をしてきました。日本の宇宙飛行士も他国の飛行士と協力して活躍してきました。将来の世代は月や火星でともに生活し、働くことになります。
いま、私は日本の学生のために宇宙開発を説明する機会があります。日本の若者が、私の説明を聞いて宇宙飛行士になったらとてもうれしいです。コロナカ禍で夢を持つことが難しい時代です。このようなときだからこそ、前向きに生きていきましょう。
文部科学大臣賞
「ヒーローとは」
オランダ王国大使館 テオ・ペータス
皆さんは杉原千畝(ちうね)という名前を聞いたことがあるでしょうか。杉原さんは第2次世界大戦が始まったとき、、リトアニアの日本大使館の領事館に勤務していました。わずか1月で多くの人々の人生を変えた人物です。
当時、ナチスの迫害を受けたユダヤ人が、ポーランドからリトアニアに逃げ、滞在していました。しかし、リトアニアも安全な場所ではないと考え、より安全な場所への出国を考えていました。
彼らは日本の領事館に通過ビザを求めて押しかけましたが、杉原さんは本国からビザ発給の許可をもらえませんでした。杉原さんは人道と権限の間で苦しみつつ、目の前にいる人たちを見殺しにはできないと考え、自らの判断でビザの発給をしました。彼自身は、リトアニアから離れる瞬間まで、ビザを発給し続けました。それは「命のビザ」といわれ、最終的に2,139通に及んでいます。
この話にはオランダとの関係もあることが分かりました。
「命のビザ」にはリトアニアのオランダ領事代理ヤン・ズヴァルテンディクも関わっていました。「命のビザ」にはひとつ弱点がありました。
通過ビザだったので、日本の滞在には使えませんでした。ユダヤ人が日本に到着した後、最終目的地の入国許可が必要だったのです。そこでヤン・ズヴァルテンディクは解決の出口を見つけました。彼は中南米に位置するオランダ領キュラソー島では、入国ビザが不要だったことに目を付け、その説明をユダヤ人のパスポートに書き込みました。この書き込みを持って、ユダヤ人は日本の領事館で通過ビザをもらいました。
国への忠誠心に反してでも、二人は人道を優先し、協力しました。戦争が終わった後、ヤン・ズヴァルテンディクは数名のユダヤ人が生き延びたことを知りましたが、そのほかの人たちが無事だったのか、80歳で亡くなるまでずっと心配していました。
彼の葬儀の日、ホロコーストリサーチセンターから彼に一通の手紙が届きました。実は、ビザをもらったユダヤ人の95%は生き残ったという連絡でした。
二人は大きなリスクに悩みながらも、道徳的に正しいことを行いました。二人は尊敬すべき人物です。この勇気、人道、道徳的な教訓には、2020年の私たちへのメッセージが込められています。状況がいかに厳しくとも、私たちは道徳的に正しい道を選ぶことができます。
彼らはいまでこそヒーローですが、当時は評価されませんでした。今日は異端の人でも、明日はヒーローになれるかもしれません。
文化庁長官賞
「日本の製品を隠さないで!」
アメリカ合衆国大使館 パメラ・ポンティアス
今年3月、わが家でパンケーキを焼くために使ってきたホットプレートが壊れました。おばあちゃんの代から40年近く使ってきたお気に入りのホットプレートです。日本に来ることになっていたので、日本で新しいものを買おうと思って我慢しました。
日本に到着し、2週間の自主隔離が終わるや否や、電気屋さんに飛んで行きました。息子たちは信じられないと笑い転げていました。20種類くらいあったホットプレートから気にいったものを選んで買ってきました。ところが大使館の宿舎で使おうとするとがっかりしました。大使館の宿舎は米国と同じ120ボルトだったのです。米国でも使える日本製の高級ホットプレートの探索が始まりました。結果からいうと、日本でしか使えない物ばかりでした。この探索をとおして日本の文化に気づかされました。
日本の家庭では、友だちを呼んでホットプレートを使ったパーティをします。日本のおもてなし文化がホットプレートにまで反映されているのだと驚きました。また、台所が狭いので、家電製品に多くの用途が加わっています。やきそば、お好み焼きだけでなく、たこやき、パスタ、パエリア、ホットケーキもできるのです。
日本人は、日本のメーカーの製品を選ぶそうです。電気屋さんにあるのは、ほとんど日本製でした。日本人の皆さんは、日本人であることを声高に主張しませんが、家電製品は日本製にこだわっています。
日本製のホットプレートは私の憧れの的になりました。ところが、アメリカで売られている日本製品は基本的なものだけでした。この格差は、炊飯器、掃除機、そしてウォシュレットに及びます。なぜ、日本の家電メーカーは、私たちがうらやむ製品を国内でしか売らないのでしょうか。
米国ではモノは少ない方がよいという考え方が普及し、多様な用途をもつ製品を使うようになっています。日本と米国はいろいろな価値観を共有しているのですから、日本の日常生活で使われる家電は米国でも売れるはずです。外交官の仕事がうまくいかなくなったら、私は日本の家電メーカーで将来働いているかもしれません。家電メーカーの皆さん、アメリカ市場は私に任せてください。
審査委員特別賞
「3つの夢」
ロシア連邦大使館 チジョーワ・ポリーナ
私は2019年8月からロシア連邦大使館でアタッシュを務めています。本日は、私の3つの夢についてお話しします。
1つめの夢は、日本を訪れることでした。私は子どもの頃から日本が好きでした。お母さんから日本の昔話を聞いていたからです。その後は、アニメ、漫画、音楽など日本のポップカルチャーに夢中になり、日本語の魅力的な発音が好きになり、高校生で平仮名とカタカナを学び、日本語で歌を歌ったりしましたが、日本語は難しいと思ったので、大学で日本と日本語の勉強をすることにしました。
2010年にロシアの大学に入学し、そこで日本史、日本の伝統、文学について知るようになりました。私が好きになったのは、紫式部の源氏物語から川端康成までの日本文学と、墨絵や浮世絵でした。日本人の芸術的な感性の素晴らしさに驚きました。侘び、寂び、モノの幽玄という美学の理念に基づいた日本の建築にも感心しました。
私は自分の目で日本のすべてを見たいと思いました。
2011年7月に別府大学に留学することになりました。大分県別府市が私の最初の訪問先になりました。大都市ではない別府市は、温泉のある住みよい街でした。旅館に泊まったり、温泉に入ったり、観光地にも行きました。記憶に残る経験でした。
2つめの夢は、動物を飼うことでした。子どもたちはみんな動物が大好きです。猫がほしい、犬がほしいと言ってきました。私も子どもの頃から犬を飼うのが夢でしたが、両親は犬を飼うことは好きではありませんでした。家では猫しか飼っていませんでした。日本では犬を飼いたいと思っていました。私は2020年5月に犬のシェルターから3か月前に捨てられた雑種の子犬を預かり、飼っています。彼女はとても怖がりなので、私たちは毎日のようにトレーニングをしています。段階的に成長し、今はほぼ普通の犬並みになっています。
3つめは、ロシアと日本の関係がより活発に発展することです。私が外交官になった理由でもあります。私とロシア大使館のメンバーは、ロ日関係の発展のために毎日頑張っています。この夢も、前に述べた2つの夢と同じように必ずかなうと信じています。
審査委員特別賞
「日本と紙と私」
シンガポール共和国大使館 リー・アイザック
日本といえば何が思い浮かぶでしょうか。おいしい日本料理、非の打ちどころのないサービス、ハイテク製品などがあります。電話、家電、自動車などがわが国にも輸出されています。宣伝も多くされているため、だれもが日本のブランドを知っています。
日本に住んで、私が一番印象に残ったのは日常生活での紙の大切さでした。2015年に私は東京大学に留学しましたが、日本に来ると書面の手続きの多さに驚きました。羽田の入国審査、銀行口座の開設、携帯のシムカードを買ったとき、一度オンラインで登録していたにも関わらず、紙の登録が必要でした。日本はハイテクの国なのに、いまだに多くの紙を使っています。
このような処理は非効率だけでなく、もったいないと思います。書面の手続きが多いため、手続きにはFAXを使う場面も残っていました。実は日本に来るまでFAXの使い方が分かりませんでした。
紙での手続きは大変です。時間がかかります。日本はほかの国に比べると書面の手続きが多いと思います。どうしてでしょうか。
多分、字を印刷した書面を見ていれば、コンピューの画面を見るよりも安心感があるからでしょう。紙のメッセージをもらえば、相手が確認できるという安心感もあるのでしょう。Eメールには確かにそれはできません。
紙は昔から日本では大切なものでした。文房具、傘、障子など沢山のモノが和紙で作られてきました。現在、和紙は無形文化遺産としてユネスコに登録されています。
紙がすべて悪いというわけではありません。今のようなデジタルの時代に紙でゆっくりコミュニケーションできることは尊いことです。たとえば手紙を書くとき、文房具屋に行って紙を選んだり、万年筆を使ったり、きれいな字を書こうとするのは、最初から最後まで芸術に近いと思います。
入力や削除が簡単なアプリを使うよりも、心を込めた手紙の方が相手にはっきり伝わると思います。だれでも友だちからカードをもらうとうれしくなります。英語のことわざですが、「大切なものを無用なものと一緒に捨てないでほしい」という意味のことわざがあります。日本と紙の関係もそのようなものかもしれません。
デジタル時代に追いつくためには、書面の手続きは見直す必要があります。オンラインの手続きは、安くついて効率的です。重要なことはそれをいかに安全に実施するかにあります。手続きのデジタル化に関わらず、紙の美しさ、日本と私たちの文化に紙の大切さが失わなければよいと思います。紙はまだまだ人間関係にとって大切な役割を果たしています。
※受賞者のスピーチは、話された内容をもとに当編集部で要約編集しました。文責は当編集部にあります。
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