識者に聞く

東日本大震災における救援と復興への取り組みPart2[後半]:「企業とNGOの協働」と「気仙沼・大島モデル」

拓殖大学国際学部 長坂寿久教授に聞く―NGOと自治体および企業との協働

企業とNGOとの協働のあり方に関する『NGO・NPOと「企業協働力」―CSR経営論の本質』(明石書店)をこのほど出版した長坂寿久氏に、前回のPART1では、東日本大震災における「NGOと自治体の協働」について、宮城県の石巻災害復興支援協議会の「石巻モデル」を中心にお話を伺った。PART2では、「企業とNGOの協働」による救援・復興への取り組みについて、震災から半年の動き、企業の具体的な支援活動事例、企業・NGO・自治体のユニークな協働「気仙沼・大島モデル」などを2回に渡って報告いただく。

Part 2[前半] 「企業とNGOの協働」と「進化する日本企業の対応」はコチラ ↓
http://csr-magazine.com/2011/10/31/analysts-part2-kesennuma1/ 

Part 1 「自治体とNGOの協働」と「石巻モデル」はコチラ↓
http://csr-magazine.com/2011/05/16/analysts-ishinomakimodel-part1

 6.気仙沼・大島モデル――NGOとの協働による社員ボランティア派遣システム

拓殖大学 長坂寿久氏

気仙沼市の離島・大島で起こっていることについて紹介したい。社員ボランティアの派遣と、復興をめぐる、企業とNGOの1つの協働事例を『気仙沼・大島モデル』と呼んでおこう。

<<気仙沼地域における津波の防波堤となった大島>>

大島は、宮城県北東部の気仙沼湾内に位置し、気仙沼湾に抱かれたような島である。周囲22キロの東北地方では一番大きな、有人離島である。気仙沼港の観光桟橋から船に乗れば、航路距離は7.5kmで、30分ほどで到着する。

北部にそびえる海抜235メートルの亀山からは全島が一望でき、その景色は「緑の真珠」と大島出身の詩人 水上不二が詠んでいる。島の海岸線は屈曲が著しく、龍舞崎、十八鳴浜、小田の浜など自然がつくり出した美しい景観が多くある島である。陸中海岸国立公園と海中公園に指定された観光地でもあり、牡蠣やほたて貝の養殖をはじめとする海産物と共に、椿油などの生産もある。上空からとった島の全景写真を見ると、亀山は父親亀の甲羅で、その横の湾は手を広げた母親亀だ。親亀の周囲に全島で子亀を5匹みつけることができた。7匹の親子亀の島である。

人口は2008年3 月末現在3,478人・世帯数1,127世帯とある。しかし、8月22日に伺った時には、人口は3,135人、世帯数は1,105とのことであった。8月22日現在の死亡者24名、行方不明7名、計31名、他の自治体に比べるとその比率は小さいことに気付く。地理的に退避する高台の山が身近に迫っているからだろうか。

この大島が防波堤となって気仙沼への津波の力は相当抑制されたといわれる。日本の3大海(快)水浴場の一つ(2番目)をもつ島(他の2つは沖縄)で、鳴き砂のあるくぐ鳴り浜や、リアス式海岸の観光資源をもっている。津波はこの美しい砂浜をもっていってしまい、遠浅の浜から急傾斜で海に入り込んだような浜になってしまったという。

 津波の時、気仙沼側の石油タンクが燃え広がり、海上の火が大島に押し寄せ、島にも延焼してきた。消化に1週間かかった。また気仙沼から大島へのフェリーは津波で島の上に乗り上げてしまったため、大島は一時完全に孤立した。NGOのCivic Forceが使用済みとなった江田島(広島)からフェリーをもってきたことによって、この島は震災による孤立から脱した。

<<災害対策の中心的機能を担う青年部「おばか隊」>>

大島には自治会的組織として気仙沼大島振興協議会があり、その中に大島地区災害対策本部が設置されており、ここが中心的な機能を果している。その中に青年部があり、「おばか隊」と呼んでいる。気仙沼の石油タンクが発火し、大島へ燃え広がってきた時、全島民で消火隊を組織し、消火に務め、さらに大量の瓦礫処理が待っていた。家を流され、家族を失いながら島の瓦礫処理に立ち上がったのが「おばか隊」であった。自分たちの独りよがりな無私無欲の行動を擬逆的に表現してこの名前をつけたのだろう。当初は50人程が参加していたが、次第に復興へ向かい仕事に戻る必要もあり、現在は10名程に減っている。誰もが自分の復興へ向けて将来の仕事の設計を考えたいが、地元全体の復興を優先する人々がいる。

筆者が滞在した8月22日頃でも、離島のせいか瓦礫処理や泥出しなど、他の自治体に比べ大変遅れているようだった。牡蠣とほたて貝の養殖と観光が主たる産業である。島は気仙沼の真ん前であり、本土にきわめて近いのにこれまでこの島を結ぶ橋はできてこなかった。橋を架ける公共工事が好きな日本の行政の体質からみると、何故かくも長きにわたって近くの島へ橋をかけようとしてこなかったのかは、不思議なことだと感じた。しかし、やっと現在の知事になってから橋の設置が議論され、平成30年までに建設することで知事と合意している。

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