東日本大震災から1年

そして今、再びつながるために福島自主避難ネットワーク「てとて」メンバーが語ること [前半]

2. 母親の立場から 「“絆”の苦しさと、“つながり”の尊さ」 白土久子さん
(「福島避難母子の会関東」メンバー)

●郡山市内で予定していた念願のマイホームを断念。
震災当時、福島県郡山市に住んでいた白土久子さん家族は偶然、ご主人の仕事が東京での3年間の出向が決まり、現在は東京都大田区に夫婦と幼稚園の娘、1歳4ケ月の息子と家族で暮らすことが出来るようになった。しかし、震災直後から半年間、白土さんは実家の新潟市、いわき市出身のご主人は仕事の関係で引き続き郡山市と離ればなれを余儀なくされた。しかも、本来ならば2011年は念願のマイホームを持つ夢を実現する年となるはずだった。既に郡山市内に土地も購入し、建築会社に設計も発注済み、2011年3月末には工務店に発注し、減税エコポイントを活用しつつ、年内には完成予定だった。しかし、3月11日の震災。夫婦は毎週末、新潟と郡山間で連絡を取り合った。ここで辞めれば借金だけが残ってしまう、政府は指定した区域外は安全だという、しかし「TVを見ると、米国は80KM圏内の自国民への避難を呼びかけていました」、本当に安全なのか、結論はなかなか出なかった。しかし既に福島県の自宅や実家では「外出時にはマスク。洗濯物も普通に干せなくなっていました」。結論として「ここに建てるべきではないと。結局は借金だけが残り、今も土地の固定資産税を払っています。」

深川美子さん(左)と白土久子さん

●避難直後から感じ続ける罪悪感。
一方で、自宅から新潟県の実家に自主避難した直後から、白土さんは精神的にどんどん追い詰められていった。周囲には知り合いも少なく、同じ立場の人もいない。そして、何よりも、政府から指定された避難区域ではないのに自主避難した自分への「罪悪感」がつのり、郡山市内に残る友人たちに挨拶する事さえ憚られるようになっていった。どうしようもなく孤独だった。自主避難した人たちは、多かれ少なかれ「罪悪感」を抱えている。自主避難したと知った友人から連絡が来なくなってしまった人もいる。その後、ご主人の東京転勤が決まり、8月から家族が合流、福島自主避難ネットワーク「てとて」を通じて同じ立場の人と接し、ようやく少し気持ちを安定させることが出来るようになってきた。

●将来にわたる子どもへの差別の不安。
白土さんご夫婦はマイホームを持つことは諦めている。しかし、「福島にいつか、子どもが大きくなったら戻れるのだろうか。夫の出向が終わった3年後にはどうしたら良いのだろうか。また家族がバラバラに暮らすのだろうか。」先の見通しは立っていない。今も、福島県内にはたくさんの子どもたちが暮らしている。将来に放射能による影響はわずかかもしれない。しかし、「たった1人だとして、その一人がわが子かもしれないと言う危険を、やはり考えられない」と思う。新潟の実家に避難した直後、ある人から1995年頃の新聞の投書の話を聞かされた。「原子力発電所の近くで生まれ育ったために、結婚が破談になったという投書だったそうです。」子どもが将来、差別されるのではないか、親の義務として自主避難を継続しなければならないのではないか。自主避難など二重生活は経済的な負担という現実。誰もが、どうしようもないジレンマの中で、自主避難という選択肢を選択している。

「阪神大震災の時のように前へ前と復興が進まない。それは放射能の問題があるから」と語る白土さんは昨今良く使われる“絆”という言葉が必ずしも好きになれなかった。福島県に留まる人もまた古い土地のシガラミやある種の呪縛に苦しめられていると感じるからだ。それでも、一方で、この「てとて」ネットワークが、全国にいる県外避難者、同胞を“再びつなげる”コミュニケーションスペースになったらとも、強く願っている。

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