東日本大震災から1年

そして今、再びつながるために福島自主避難ネットワーク「てとて」メンバーが語ること [前半]

現在、震災で避難した福島県民は約15万人、うち県外避難者は62,610人(2012年2月現在)にのぼる。2012年3月3日、ひな祭りの日に、子どもたちへの放射能の健康被害を避けるために福島県から自主避難してきたお母さんたちを中心とする福島自主避難ネットワーク「てとて」が品川区の一角にコミュニテイスペースをオープンした。オープン記念トークイベントから、母親、父親、独身の若い女性、各々の立場で震災後に何を考え、自主避難を決断したのか、現状、早急に求められる支援とは何かを2回に分けてレポートする。

[前半report]

  1. 父親の立場から「住宅支援の継続が緊急課題」磯海寛元さん
  2. 母親の立場から「“絆”の苦しさと“つながり”の尊さ」白土久子さん
  3. [コラム] 内部被ばく検査を全国で
  4. 事務局メンバーの深川美子さん(前列中央)ほか参加メンバーたち

    1. 父親の立場から 「住宅支援の継続が緊急課題」 磯海寛元さん
    (「福島避難母子の会関東」メンバー)

    ●公式発表される放射能数値への不信感から自主避難を決意
    福島県から自主避難する90%が母子というなか、今回のイベントでは父親として自主避難を選択した磯海寛元(いそがいひろもと)さんが登場した。震災当時、震源地から25kmの福島県須賀川市に住んでいた磯海さんと奥様の未亜さんは、長男である寛元さんが実家を継ぐためにと数年前に福島にUターンしたばかりだった。それだけに、先に未亜さんが2歳の息子とともに自主避難した後も、寛元さん自身が自主避難を決断することは容易ではなかった。両親の反対、実家を継ぐ責任、仕事を退職すること。しかし、最終的に「子どものために」と自主避難を決めたのは、公式発表される放射能計測値への不信感が拭い切れない事が大きな要因だった。

    仕事の関係で震災前からガイガーカウンターを使っていた磯海さんは、震災後に市役所担当者と市役所内敷地を一緒に計測する機会を得た。すると明らかに自分と計測値が異なる。「市役所の方は2.8マイクロシーベルト、自分は6マイクロシーベルトと2倍でした。」磯海さんが保有するガイガーカウンターは専門家用の50万円程度、市役所の人たちが持っていたのは6万円程度のものだった。「機械の精度だけでなく、自分は以前からガイガーカウンターを使った計測に慣れていたことも計測結果の違いとなったかもしれません。」その後、市内では除染作業が進められたが、磯海さんの計測によれば最高で放射能の数値は、自宅の庭で10マイクロシーベルト、家の中が1.2マイクロシーベルト、会社の敷地は40マイクロシーベルトに達した。「自分は放射能の専門家ではない。マスコミでは大学教授の皆さんも安全、安全でないと意見が分かれている。分からないならば、リスクをとることは出来ない。自分が父親として息子を守るためには県外で育てるしかない。」苦渋の決断だった。

    一方で、避難した人と避難できない人との間にも見えない壁はある。磯海さん自身、会社を辞める人生の決断は決して容易ではなかったが「避難できる人間は良いよな」と地元では言われる。けれど「年上の40~50代の方は自分よりも仕事のキャリアも積み重ねている、今からの転職も難しいと思われるでしょう。避難することが正しい、正しくないと一概に言えません。」また、自主避難後も家族で福島の実家に戻ると、両親は孫のために畑で採れた新鮮な野菜を用意して待っている。しかし「きちんと放射能を計測しただろうか」、そんな思いで息子に食べさせられない磯海さん夫婦とご両親の間にも考え方の違いやぶつかり合いが生じる事もある。

    磯海さんご夫妻

    ●福島県で登録した車の価値はゼロ査定!?
    震災後の福島県に対する言われのない“差別”について、磯海さんは分かり易い事例で説明した。「震災直後、車のディーラーをしている友人から、福島県で登録した車の価値はゼロだと言われました。今は1/4ぐらいに回復しているようですが」。磯海さんは福島県で子どもを持つ親は誰でも、自分の子どもが他県の人と結婚できるのだろうかと不安に思っていると語った。「私自身、除染活動にも従事し内部被ばくを受けている。このまま福島県内に住み続けながら、2人目の子どもを持つことには大きな不安が生じるだろうと思いました。」不安に苛まれながら県内で暮らす夫婦は、将来の家族設計が見えなくなり、家族関係が崩壊、離婚しかねないケースも増えていると言う。

    ●明日、自分の身に起きるかもしれない問題として
    現在、寛元さんは毎日真剣に求職活動を続けているが、預金を取り崩して生活を維持せざるを得ない。ハローワークでも震災後3~4ケ月は被災者支援枠の求職があったが、寛元さんが東京に出てきた頃には既になくなっていた。住居は、奥様の実家がある神奈川県内のアパートを住宅支援で借りているが7月には支援期間が切れてしまう。「多くの住宅支援策が1年たって切れてしまっているのが現状です。国からの早急な支援を頂けると有難いです。」東日本大震災への関心が薄れつつある事を実感する、しかし、明日、日本のどこかで大震災があるかもしれない、皆さんに自分自身の問題として考えていただけると有難いです、と寛元さんは語った。

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