2011年新シリーズ「突破力――社会と女性たち」第2回

第2回 訪問看護の第一線で人生の終末に“やすらぎと安心”を

医療法人社団三喜会 ケアタウン「あじさいの丘」 居宅サービス部統括部長 和田洋子さん

国民の4人に1人が65歳以上という高齢社会がせまっている。いつまでも元気であれば問題ないのだが、だれもがいつかは人生の最終章を迎える。病気を患った高齢者の中には自宅で最後を、との声も根強い。医療・看護・介護の連携で要介護の高齢者の在宅生活を支える在宅医療や訪問看護の取り組みはどうなっているのだろうか。訪問看護の第一線で在宅ケアの支援に取り組む和田洋子さんを追った。


育てられたケアの心

和田洋子さん

一人の人格をケアするとは、最も深い意味でその人が成長すること、自己実現することを助けることである――『ケアの本質』の著書で知られるM・メイヤロフの言葉である。
「訪問看護はニーズがあれば真夜中でも出動します。訪問先では一人で判断し、行動しなければなりません。看護の力量が試されます」「人をケアすることはその人のためだけでなく、自らの成長のため。メイヤロフの言葉がどれほど力になったことか……」と和田洋子さんが語った。

和田さんが医療法人社団三喜会(荒井喜八郎理事長)の依頼を受けて神奈川県秦野市で鶴巻訪問看護ステーションを立ち上げたのは15年前の1996年8月。 それ以来、このメイヤロフの言葉を胸に刻んで、在宅ケアが必要な患者と家族に、さまざまな専門スタッフと協働しながら医療・看護・介護のサービスを届けて きた。

死を見つめる訪問看護の日々

秦野市は神奈川県中西部に位置する。80年代から急速なベッドタウン化が進み、現在の人口は17万人にも及ぶ。
「看護師3名、理学療法士1名で始めたときの利用者数は十数名でした。しかし数カ月後には、地域の医師や行政の保健師などの口コミで、『こういう患者がいるのでお世話して欲しい』という依頼が次々と寄せられるようになりました」

和田さんには、いまも忘れられない患者がいる。その年の11月の初め、近隣の大学病院から末期がんの患者が退院するので、なんとか見てくれないかという電 話が寄せられた。患者の自宅は足柄上郡山北町。看護ステーションから片道1時間半もかかる場所だ。冬の季節にはよく雪が降り、クルマにチェーンを撒かない と行けない地域だった。
「担当のケースワーカーさんが素晴らしい人でした。時間がないので、なんとか自宅に帰してあげたい。いまじゃないと帰すことができないので……」と懇願された。

患者は末期がんの60歳後半の男性だった。原因不明の皮膚がんで、首の周囲に腫瘍が広がり、気管切開のためコミュニケーションは筆談だけであった。痰がつ まらぬよう吸引したり、気管内チューブを交換したり、瘡部のガーゼ交換などでひんぱんに訪ねた。病状の進行とともに主治医からは、「腫瘍が増大して頚動脈 が破裂する可能性があるので、危ないからそろそろ入院させなさい」と再三言われたものの、「自分はこの地で生まれ、ここで育ち、結婚して2人の子供を育て た。妻と2人だけの静かな暮らしがやっとできるようになった。死ぬのは分かっている。ここで死なせて欲しい」と頑なに入院を拒否した。

ご本人には、自分の気持ちを先生にお伝えしたらと、主治医宛に手紙を書くことを勧めた。飾り気のない素朴な手紙だった。それを見た先生は「本人の気持ちは分かったけど、臨終を看取ってくれる医師がいるのだろうか」と心配してくれた。
自宅での介護には医者との連携が欠かせない。だが、足柄には往診してくれる医師がゼロといってよいくらい少なかった。

「医院を一軒一軒訪ね、お願いして歩きました。たまたま息子さんがその大学の医学部に行っているというお医者さんがなんとか引き受けて下さいました」
亡くなる1カ月前に、「子供の頃遊んだ大野山に行きたい」と頼まれた。スタッフたちと相談し、11月の終わりにその山に連れて行った。その日は薄曇だった が、山頂一面を白い花が咲いたように霧氷が覆い、それは見事だった。1カ月後、この患者は家族に看取られ静かに息を引き取った。

「あじさいの丘」にはスタッフたちの顔写真が掲げられていた

「あの霧氷のことを思い出すといまでも涙が出てきます」と和田さん。
さまざまな出会いと経験が和田さんと看護師たちを育ててくれた。
「自宅で最期を迎えたいという方の思いを大切しながら、最後まで支えて行く」が鶴巻訪問看護ステーションの合言葉となった。

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