識者に聞く
東日本大震災への取り組みとNGO「石巻モデル」と「企業とNGOの協働」 Part 1
長坂 寿久(拓殖大学国際学部教授)拓殖大学教授の長坂寿久氏から、震災復興への具体的な取り組みについて、「石巻モデル」と「企業とNGOの協働」を2回に分けて提示いただきます。
Part 1. 「石巻モデル」(石巻災害復興支援協議会)」について
――自治体とNGOの協働システムとして――
はじめに~3.11後の新システムの構築に向けて
3・11の大災害への取り組みを通して、私たちは新しい時代へ向けて何を得ることができるのだろうか。この災害によって、生きることを奪われ、生活のすべてを奪われた人々がいる。多くの人々が大きな被害を受け、多くのものを失った。そのことを思うと、何を得ることができるかという発想自体に違和感もある。しかし、自分(筆者)ができることを何だろうと考えると、そのことを考えることにもあるのだと思うので、お許しいただきたい。
このコラムをいただき、2つのことについて書くこととする。今回の大災害への取り組みを通して、1つは、行政とNGO、もう1つは企業とNGOとの関係がかつてなく深化する時代を迎えうるかどうかに関心をもっている。この2点は、新しい日本を誕生させる必須条件であると感じているからである。
もう一つは重要なことは、東京電力の福島第1原子力発電所の事故の経験から、私たちは何を得るかということである。いうまでもなくエネルギーシフトである。この点は実に重要な課題であるが、本稿ではNGOと自治体および企業との関係をテーマとするので、今回はこの点については触れない。〔原発問題に対する私の考えは、「シネマ&ブックレビュー(2月15日付)」『ミツバチの羽音と地球の回転』映画評を、ぜひご参照ください。↓〕
http://csr-magazine.com/archives/review/review24.html
今回は、行政とNGOとの関係を深化させる新しい仕組み(システム)の開発事例として、「石巻災害復興支援協議会」を紹介する。行政が、NGOの専門性・組織力を信頼して、いち早く歓迎し、受け入れ、協働していくことで、より早くかつきめ細かい、体系的な救援・復興への取り組みが可能となる。この事例(石巻モデル)は、それを明瞭に示している。
阪神淡大震災の時は、日本のNGO・NPOはまだ育っていなかった。NPO法ができてから12年、NPOの登録数は4万を超え、NGO・NPOは著しい成長をとげた。その結果として、2011年、「石巻モデル」は、自治体とNGO・NPOとの関係が新しい段階へと深化し、構築される可能性を示していると位置付けられるだろう。「石巻モデル」は、自治体が「NGO力」(市民社会力)を本格的に認識する新しい時代ととらえる契機となるだろう思われる。
1. 行政の本音とNGO・NPO
1995年、阪神淡路大震災の年は、「ボランティア元年」「NPO元年」と言われている。多くの人々が救援・復興のボランティアとして現地に駆けつけたことによって、議会・政府・自治体は市民社会活動の重要性と意味を認識し、1998年末には「特定非営利活動促進法(いわゆるNPO法)」が導入された。これは日本において、政府が初めて市民社会活動を認識し、公認する法的枠組みとなった。ヨーロッパでは近代へ向かう以前からシビル・コード(民法)として存在し続けてきたものが、日本ではやっと12年前、20世紀末に導入されたのである。
しかし、市民社会活動が法律によって公式に認知されたとはいえ、それはそのままに政府・自治体が市民の活動を十分認識したことを意味するわけではなかった。指定管理者制度などによって、自治体とNPOとの「協働」も語られてきたが、実態的にはNPOの活用によって自治体の財政負担の削減への目論見という本音が露呈するなど、「行政主体」の論理が横行し続け、行政の下請けでない、行政と対等に向かい合う市民活動の域にはまだ達していないのが現状である。
そもそも「いわゆるNPO法」が導入される際に、当初は「市民活動促進法」という法案名で審議されていたのだが、行政(官僚)によって「特定非営利活動促進法」という、民法の例外規定扱いの名称に修正されたという経緯がある。これは政府が行政負担の軽減と行政の責任転嫁先として、市民団体を生み出す必要があったからだという指摘もある。しかし、それでもなお、NPO法の導入は、日本の変革への足掛かりとして大きな意義があったことは確かであり、今や登録法人数は4万を超えている。
この12年、政府・行政側はNPO法を通じたNGO・NPOとの付き合いを通して、市民の社会活動への理解を深め得たのか、そして行政主体論理を少しは修正あるいは変容するようなことが起こり得ているのか。今回の大震災への行政とNPOの対応はそれをはっきりと見せてくれることになるのだろう。
今回の大震災への対応においても、日本的な行政主体方式と市民の自発的取り組みとの間に温度差以上の本質的な壁(偏見)があると感じられることもある。この壁を乗り越えることが新しい日本をつくっていくためには必須の作業であるといえよう。行政が市民社会団体の活動の意味を今回の大震災への対応を通してどのように学び、認識しうるかを、日本の変革のメルクマールとして、私は注目している。
2.自治体の対応~先駆的な事例となる「石巻モデル」
筆者自身は、こうした視点から各行政の取り組みを網羅的に調査したわけでない。しかし、今回その壁を乗り越える新しいシステムの誕生を強く感じられるケースに出合い、注目をしている。それが宮城県石巻(いしのまき)市の「石巻災害救援復興支援協議会」である。
自治体による市民社会活動への“感受性”の差が、救援・復興への対応のスピードときめ細かさに大きな違いをもたらしていると感じられる事例であり、この「石巻モデル」は、大震災から創出された、自治体が市民社会セクターの存在を本格的に自覚する必要性と価値のあることを示す先駆的事例として記憶されることになるだろう。
毎日の個人ボランティア600~800人、団体ボランティアが400名以上活動する石巻市。震災直後に発足したNPO・NGO支援連絡会が長期的かつ主体的な活動を行う「石巻災害復興支援協議会」に改名。現在の登録団体数は190を超える。http://gambappe.ecom-plat.jp/index.php |
今回の大地震・津波は、被害が広域的かつ甚大であったため、自治体の機能が失われたところがあり、初動が遅れたということもある。ゴミ出しから薬の配分、ガソリンの給油制限(緊急車両への配分)など、様々なところで行政の対処の遅れも指摘された。
しかし、そうした点を割り引いても、全体的に自治体による市民社会活動への対応の遅れや躊躇がみられたように感じられる。「迷惑ボランティア」という言葉がある意味では意図的にメディアから流され、ボランティアの受け入れは近隣地域の人々に限定する自治体も、当初は多かったのではないか。これは行政が市民社会活動の受け入れに不慣れということ以上に、市民社会活動への、私たち日本人の基本的な偏見(あるいは強固な行政主体論)が依然根強く存在していることを示すものではないかと感じられる。
行政側には、市民社会活動を管理しなければならないという思い込みが前提としてあるようだ。従って、確実な管理体制ができるまで、NGO・NPOやボランティアにきてもらっては困ると考えがちとなる。実際は、それぞれのNGOには独自の専門知識と管理能力・対処能力があり、自治体(行政)側としてはNGOを信頼してこれと協働していけばいいのだが、そういった発想は、日本にはまだ根ざしていないようだ。
今回の大震災での経験を通して、自治体側にNGOへの認識が高まり、NGOと行政の間に、新しい本質的な信頼関係が構築されることを期待している。その代表的な事例が「石巻災害復興支援協議会」である。
石巻には当初から多くのNGOやボランティアが入り、他の自治体に比べ救援・復興への取り組みが速やかに進展し、かつきめ細かい取り組みがなされていることで知られた。ボランティアの拠点となった石巻専修大学の映像はしばしばテレビにも登場した。石巻は被災地で最も多くのボランティアを今も集め続けている。
阪神淡路大地震を契機に、日本全国でボランティアへの対応の仕組みがつくられ、各自治体に設置されている社会福祉協議会がその担当をすることになっている。災害が起こると、社会福祉協議会は災害ボランティアセンターを設立する。各地からやって来るボランティアはこのセンターに登録して、調整を受け、その指示に従って必要な業務に当たるのである。
被害が甚大で大きな地域に広がり、さらに自治体の事務所自身も被害を受けると、行政は大きく混乱する。救援への取り組み課題も多様となり、役所の縦割り行政の弊害が一挙に露呈する。しかし、そうした弊害を非難しても状況が改善されるわけではない。それよりも実効的な道を考え、縦割り行政の弊害を打破し、あるいは行政を補完・強化するために設立されたのが「石巻災害復興支援協議会」であった。
3.石巻市の被害状況とボランティア
石巻市の人口は、16万2822人(2011年2月時点)である。世帯数は6万928世帯、家屋数は約12万8000戸という。この中で、死者・行方不明者は5734人(5月9日現在)、地震・津波で4万4000戸が全壊、3万4000戸が半壊、合計約8万戸が深刻な被害を受け、一時は人口の30%にあたる5万人超が避難生活をしていた。
石巻市の被災地は、大きく3つの地域に区分できよう。第1の地域は、海岸側にある広大な地域が堤防を越えた巨大津波に襲われ、家々は全壊し、人々を呑み込んだ。わずかに残った鉄筋の建物も大きく破壊されている。この地域に足を踏み入れると、異様な空気と臭いに包まれていた。しかし、どこかで見覚えがある風景だと感じたが、それは原爆が落ちた後の広島の焼け野原だった。何度も見た、命の途絶えた「街」の写真。あの異様な風景に似ているのだった。
他方、これとは逆に、津波が来なかった比較的高台や海から離れた地域は、被害がないかのように建物が残っている。この地域はかつて何度も地震と津波に襲われた経験から耐震構造の家が多いという。家の中では家具や茶器などが倒れたり壊れたりしたのであろうが、被害は比較的小さかったといえよう。こうした地域の中には、NGO・NPOやボランティアのメッカとなっている石巻専修大学がある。
第3の地域は、2つの地域の中間にある市街地を中心とした、おおむね1階を津波に襲われた地域である。道路の両脇には家々から出された壊れた家具などが堆く積まれているが、2~3階建てのビルの看板や外観は無事に残っているようにみえ、復興の日も近いように感じさせる。しかし、泥出しのボランティアに参加して、その被害の深刻さに気付き、唖然とさせられた。外から一見しただけでは分からない実態があった。
洪水はそれだけでも大変な被害をもたらすものだが、津波というのはそれだけではないのだ。海底のヘドロを掻き上げた真っ黒な土と共に家の中に押し入ってくる。家は倒れず残っても、水が去った後には分厚くしつこい泥の中に、家具や食器が埋もれ、床を覆っている。地下がある家は地下にヘドロの水が入り込み、腐っていく。上澄みの水はポンプで吸い上げられるが、ヘドロを吸い上げることは難しい。それを掻きだすのには、重機の力ではなく、人間の手が必要である。この膨大な泥出しを終えない限り、復興への取り組みは始まらないのである。その点で、現時点ではボランティアは無限に必要とされている。
さらに被災者や避難者への対応についても、無限ともいえる課題が存在する。炊き出し(食事の保障)から始まり、子どものケア、教育、医療、精神的ケア等々、列記しきれないほどである。