この町で健やかに暮らし、安心して逝くために在宅療養を考えるこの町シンポジウム [前半]

6年前、一人の女性が末期の食道癌でこの世を去った。吉野總子(ふさこ)さん83歳。昭和12年に地方から東京・新宿に出て商売を始めた彼女にとって、新宿は住み慣れた町であると同時に、何ものにも代えがたい友人たちの住む町でもあった。人生の最期を住み慣れた町、住み慣れたわが家で迎えたいと願う高齢者は多い。「健やかに暮らし、安心して逝くために」なにが求められているのか。吉野總子さんの在宅療養に関わった皆さんによる「この町シンポジウム」を2回にわたってお伝えしよう。

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◎在宅療養を考えるこの町シンポジウム [後半]

http://csr-magazine.com/2011/07/05/analysts-zaitaku-part2/

「この町シンポジウム」参加者

[写真左から] 吉野祐二(母親の看取りを経験した患者家族)、木下朋雄(コンフォガーデンクリニック院長) 、川畑正博(東京厚生年金病院緩和ケア科医長) 、小川和孝((有)プロキオン介護支援専門員) 、松浦志野(元白十字訪問看護ステーション看護師・東京医科歯科大学大学院生)

コーディネータ
秋山正子((株)ケアーズ 白十字訪問看護ステーション統括所長)  [写真一番右]  

手術はしてくれるな

秋山 今日は吉野總子さんの息子さんである吉野祐二さんにも参加いただきました。実はもうすぐ7回忌を迎えるのですが、故人を偲びこれまでの経過を振り返ります。總子さんは食道癌末期、甲状腺機能低下症で83歳で亡くなられました。ずっと新宿区内で一人暮らしをされ、近くのかかりつけ医院の紹介で大学病院に入院しました。まず、吉野祐二さんから大学病院でお母さんの病状を聞いたときの話から始めていただきます。

吉野 かかりつけの医師から食道癌という見立てがあり、信濃町の大学病院に行きました。その段階で母親は手術はしてくれるなということでした。家族としては病院の決められたメニューに沿って進めるのが世の中の常識だと……。でも、母親の意思があまりに固いものですから、2~3日考えて見ようということになりました。母親の意思は手術をして延命がかなってもせいぜい数年、そこまでして延命することはないというのです。大学病院としてはそれならなにもしてあげられないということで、退院することになりました。

母親を支えた東京・新宿での人と人の絆

吉野 命が終わろうとするときに全力を尽くすのは家族の務めです。実は、他の病院にもあたったものの半年ほど待たないと空きがない状態でした。そのときにケアマネジャーの小川さんをはじめ白十字訪問看護ステーションの皆さんに出会えたわけです。今日のテーマは「この町で健やかに暮らし、安心して逝くために」ですが、母親は昭和12年に地方から新宿に出てきました。母の話の中で必ず出てくるのが近所に住んでいる友人です。家の前でご商売をされていた方で、その方は朝・晩と母親の寝室をのぞいてカーテンが開いているか心配してくれました。東京の新宿でまさかと思われるでしょうが、そのような恵まれた人間関係がありました。

秋山 外科の手術を断った背景には、總子さんがそれまで生きてきた80年の経験がありました。80歳で大きな病気になったが、この先が見えているという話を常にされていました。このあたりの人生経験が病気に向かう總子さんの意思を貫かせたところでもあったかと思います。

吉野 父親も胃癌でした。手術で開腹したらかなり進行していました。結果論ですが、もし父親が手術をしていなかったら、2~3年生きながらえたという思いもありました。そうした経験が手術に対する判断の背景にあったと思います。母親は長年商売をしてきましたから、その人生経験で生命に対する自分の決意もあったのかもしれません。  

秋山 ケアマネジャーの小川さん。總子さんが放射線の治療を受けて戻ってきたときに、介護保険の申請をされて、認定調査にうかがったのでしたね。

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