識者に聞く

ただ“被災者の心に寄り添う”ために。

日本災害救援ボランティアネットワーク 渥美公秀 教授に聞く

未曽有の広域災害である東日本大震災において被災地を支援するとはどういうことなのか?過去の国内被災地では時間の経過とともに何が起きていたのか。15年以上にわたり、被災地支援を続け、現在は岩手県九戸郡野田村を拠点に支援に取り組む、日本災害救援ボランティアネットワーク(NVNAD)理事長、大阪大学大学院 渥美公秀(あつみともひで)教授に話を聞いた。

過去の被災地支援での“後悔”を繰り返さないために

Q. ご自身も被災された阪神・淡路大震災を契機に災害救援ボランティアに係られた当初は、現在のように一つの被災地を集中して支援されるやり方ではなかったそうですね。

渥美:1995年当時、私は神戸大学で教えておりまして、家は西宮にありました。幸い家族は無事でしたので大阪の実家に世話になり、私は被災者の方々にお風呂を炊くボランテイアなどをお手伝いしていました。ボランテイア元年と言われるこの年に、私たちも西宮ボランテイアネットワーク(現在の日本災害救援ボランティアネットワーク(NVNAD)の前身)を設立しました。 

渥美公秀 教授

その後、ボランテイアに来てもらうばかりでなく「自分たちも、お返しをせなあかん」、日本各地の災害地に救援にいこう、TV番組の国際救助隊“サンダーバード”みたいに、どこでも飛んでいくぞ!と。しかし、それから紆余曲折、試行錯誤を繰り返して、約10年後にやっと気づくんですけど、そうしたやり方は、何か違う、我々の市民活動には間尺に合わないわけですね。

阪神・淡路大震災からの約10年間は、自分たちは“サンダーバード”だと思っていましたから、災害があれば駆けつけて、被災された方と深く接することもなく、ボランテイア活動をして帰ってくる。逆に、その間(本拠地である)西宮で復興住宅のお世話を充分に出来たかというと全然出来ていないんです。段々と自分たちのやり方は何か間違っていると感じるようになった。

「自分たちは“被災者の人に寄り添って”被災者支援をやるはずだったやないか」と。ボランテイアというとワーっと被災地に行くことのように思うけれども、たった一人で広域を支援できるわけがない、少数の方とお付き合いしながら人間関係を深めていかなければ。そうすると、必然的に一つの集落にずっと関わり続けるというようなスタイルになってきたわけですね。

Q. 2004年の新潟中越地震では、小千谷市塩谷での長期支援をされるようになりました。

渥美:被災した自分たちを振り返ると、モノを頂くのも嬉しいけれども、(支援者が)ずっと会いに来てくれて友達関係が出来ることが、お互いにとって一番の事だった。でも2004年時点もまだ、そこまで気づいていませんでした。ですから、長岡の災害ボランテイアセンターで、今日はここで作業してくださいとボランテイアさんをコーディネイトしながらも何か違うなあと。 

そのうち、うちの学生たちが仮設住宅に入られた方に足湯をしながら徐々に1対1の人間関係が出来てきたんですね。(本当の支援というのは)これなんやろうなあと思い始めたところで、仮設住宅から山の集落に戻られる方が出てきた。そこで一つの集落、小千谷市塩谷と出会い、ずっと応援するというか、一緒に過ごさせていただくようになりました。

田植えをしたり、稲刈りをしたり、米も美味しいし、雪が4メートルとか都会育ちの人間が見たこともない風景を見て、僕も楽しいし、学生にも第2の故郷になっていく。村の方々も「こいつは新しい村民や」とまで言って下さって、僕が普通に村にいてもおかしくないようになっていったわけです。

Q. それだけ村に溶け込まれた経験をお持ちなのに、今回の東日本大震災での支援は、“新潟支援での悔いを活かしたい”とおっしゃる理由はなぜですか?

渥美:その村には50軒ほどの方がいらして、皆さん地震直後には仮設住宅から村へ一緒に元に戻ろうとされていたんです。でも、(法律で入居期限と決められている2年後には、さまざまな理由で)結果的には戻る人が20軒、戻らない方が29軒となりました。戻った方にしてみれば戻らなかった方の集落への想いがわからない、一方で、村から出た方にしてみれば、生活するためには背に腹は代えられんのだと。村の皆さんはその時のことを、5年、6年と経った今でも繰り返して「あの時は、本当に苦しかった」とおっしゃる。そのことが、今でも胸の中で、くすぶるわけです。

言い訳がましいですけれども、村に戻る戻らないを決めたのは、僕が村にいない時期でした。けれども、“被災者の心に寄り添う”とかカッコ良いことを言うなら、それだけの大変な決断を村の方がされる時こそ、皆さんの心に寄り添って、皆さんが納得行くように決めて頂けるようにしなければならない。東日本大震災の今回は、被災地の方に決して同じような思いをさせてはならないと思っています。

Q.被災者には、それぞれの事情と考え方があると思います。あえて伺いますが、行政ではない、第三者にどのような事が出来るのでしょうか?

渥美:確かに、震災後にどこに住むかは被災者一人ひとりの判断です。けれども、少なくとも、そういう重大な決断をする時に人は迷うと思うんですよね。行政が(2年の入居期限だから)単純に7月1日に仮設住宅から村に戻るか戻らないか申告しろ、イエス/ノーを決めろと言われても、やっぱり迷ってるんですよ。もし、その場に自分がいたなら、行政に駆け込んで「あと1ヵ月待たれへんのか」と交渉できました。いったん出ることを申告したとしても、1ヵ月の猶予があって「本当にイエスかノーか?」と考える時間があったら、本人も納得します。けれども、一方的な説明会を難しい言葉でされて、何が何でもこの日までに申告しろと言われても何を話し合えば良いかもわからない。そのうち、保険とか、シビアなお金の話も出てくる、噂が噂を呼び、村民同士が疑心暗鬼になったというのも分からない話ではありません。

被災地の方で「これから決めることは重要なので、私には時間が必要です」と、そんな風に理路整然と言う人はいないんですよ。何か聞いても「うーん」と言ってるわけですよね。でも、日頃からお付き合いしていれば、気持ちが言葉の端々からわかると思うんですね。

「お母さん、何が問題なの?」と、要するに「決められん」と。「隣のおばさんは何ていってるの?」と相談に乗る、行政に協力するしないではなく、中立の立場でヨソ者がかき混ぜていかないといけない時期が、今回の東日本大震災の被災地でも必ず来ると思っています。

トップへ
TOPへ戻る