皆さんからのメッセージ

震災3年。個人の思いとチカラが積み重ねてきたもの。


  1. 仮設校舎から本校舎へ。震災との戦いは続く~石巻市立渡波小学校 教諭 木村 明子
  2. 地域に花を咲かせるための、“土”を作る~北いわて未来ラボ 地域コーディネーター 下平暢樹
  3. “ケンカゴマ”で全国に製造業ネットワークを広げる~有限会社ユニーク工業 専務取締役 羽広保志
  4. 東北の眠れる価値を引き出して伝える~NPO法人 ラブギャザリング 安藤 貴明、深尾尚子
  5. 被災地の皆さんからの学び~謙虚であること ~株式会社budori 代表 有村 正一
  6. <特別寄稿>支援の“素人”が地元に飛び込んだ3年間
    ~登内 芳也 岩手県北上市役所「地域・産業連携復興支援員
  7. <インタビュー>地域の心が揺れる今こそ、“外”の人間が役割を果たす時
    ~株式会社アバンテイ 代表取締役 渡邊智惠子

支援の“素人”が地元に飛び込んだ3年間

登内 芳也 岩手県北上市役所「地域・産業連携復興支援員」

都内で流通業を営む自営業社長が、復興支援に人生を賭けて、岩手県北上市に単身赴任中

登内 芳也氏

1.震災からの3年間

震災直後~焦燥感にかられる毎日、そして震災支援に飛び込む

2011年3月11日(金)午後、私は地元の埼玉県のホームセンターに家内といました。
ドーン!と体験したことのない大きな揺れに、家内を抱えてホームセンターの駐車場に飛び出しました。小学校に通う子どもたちが心配で慌てて車で帰宅しますが、大きな余震が続き、目の前に止めてあった大型バスが大きくバウンドし、電線が大きく波打っていた様子は今でも鮮明に残っています。

テレビをつけると警報音と点滅し続ける日本地図。すぐに自分が営む都内の流通関連会社スタッフ、一緒に新ビジネスの構築に取り組む仲間の群馬県地元企業「下請の底力」メンバーの無事を確認します。その後は、沿岸部の茨城県ひたちなか市の町工場の方々、さらに宮城や福島の知人など、名刺入れを引っ張り出して片っ端から連絡を取り続けますが、一向に繋がりません。一晩中、テレビの前でニュースを見ながら、インターネットで情報を拾いながらメールの返事を待ち続けました。

翌日、福島第一原子力発電所事故の報道を見たとき、まさか今のような状況になるとは予想できませんでした。翌12日(土)に予定していた中国からのお客さんとの打ち合わせは中止。翌週も、電車も止まりガソリンがないため移動できず電話での打ち合わせのみ。埼玉県の会社倉庫で荷物を確認したり、お米や水など必要物資を買い求めながら、返事のない知人の安否が心配でなりません。

翌日も翌々日もその次の日も・・・時間が空けば昼も夜もテレビのニュースをずっと見続けていました。
ふと、2004年の新潟中越地震発生時、数カ月後に自衛隊OBの先輩に連れられて現地に行ったことを思い出しました。あの時は何もできませんでしたが、もし、今後何かあったら出来ることをしたいと思っていました。

翌々週の20日(日)には地震で液状化した千葉県の浦安市を訪れ、さらに福島県双葉町の方々が避難するさいたまスーパーアリーナに子どもたちを連れていきました。いつもドリカムのコンサートに来ていたスーパーアリーナに、たくさんの被災者が段ボールの衝立の中、おられました。入口に応援メッセージ用に大きな白い幕が用意され、子どもたちと書き入れましたが、それがどのくらい役に立つのかは疑問でした。

そして、3月25日(金)に群馬県の仲間を集めて緊急会議。
そこで伝えたことは「東北に支援に入りたいので、下請の底力の活動を抜けさせてほしい」と。本音は「東北支援の活動をみんなで一緒にやってほしい」でしたが、自動車部品など製造業を中心とする仲間たちはリーマンショックによる下請仕事の激減、厳しい経営からまだ立ち直っていない状況です。
更にボランティア活動に付き合ってほしい・・・とはさすがに言えませんでした。
それでも、一部のメンバーは共鳴してくれて、できる範囲で手伝ってくれることになりました。

実は震災直前には本業の流通業の仕事で上海に行っていました。
日本の商品を販売する出店準備を始めた矢先でしたが、上海進出の話も一旦、保留にしました。
そして30日(水)に東北支援団体「チームともだち」を立ち上げたのでした。

チームを立ち上げたものの、周囲は大反対

「チームともだち」を立ち上げたものの、私は救援復興のプロでも心のケアのプロでもありません。
自分に何が出来るのかよくわかっていませんでした。
ただ「もし自分が当事者だったら何をしてほしいだろう・・・」とずっと考えておりました。

もし、娘が、家族が亡くなったら・・・もし会社が無くなったら・・・もし自分が精魂込めてつくった野菜が出荷停止になったら・・・もし、もし、もし・・・ だから、まず行こう!まず聞こう!と思いました。

しかし「素人が被災現場に入ると迷惑になる」とも聞き、ずっと躊躇していました。
そんな中、テレビでアルピニストの野口健さんが被災地レポートをしています。
「登山道具も、みんなで担がないと頂上まで運べません。担ぎ手がもちません。だから一人でも多くの方に、まず現状を見てもらいたいです。出来たら一緒に運んでもらいたいです。」
その一言で私のストッパーが外れた気がします。

翌日から2つのことを同時に動くことにしました。
ひとつは現地に出向いて、ヒアリングすること。もう一つは首都圏の支援仲間を発掘すること。
今までやってきた中小企業の販路開拓支援であれば少しは役に立てるだろう・・・と思っていました。
また、子ども応援が好きな仲間が多かったので、子どもたちが喜ぶことを手伝おう・・・とも。

翌日から支援チームの簡単な企画書を作って翌日からとにかく会える人、会える人に会い続けました。実はその第一号がCSRマガジンの大谷さんでした。
「今回の被災で25万人の避難者がいます。ということは単純計算で5万世帯が困っています。
5万人のための仕事づくりをしたいので力を貸してください!」それが企画書の骨子でした。

もちろん私たちの団体だけで5万人の雇用を作るのではなく、様々な企業さんや経営者に雇用の受け皿をつくってもらえるよう働きかけようという主旨でしたが、中には「(5万人の雇用などと)君は詐欺師だ」「ペテン師だ」と罵倒されることも。「自分の家族や仲間をホッポラかして、いったい何を言ってるんだ!まずは自分のことを何とかせえ!人のことは二の次だ!」と叱咤激励されることも。

実は、私はリーマンショックのあった前年に多角経営に失敗して自社を大きくリストラしていました。
なんとか会社は黒字化させたのですが相変わらず借金は残っていました。
つまり「再建中のお前がすべきことではない!」という厳しいお叱りでした。
おっしゃることはごもっとも。当然、家族も心配させます。
でも、この状況で何をしないというわけにはいきませんでした

私は会社をリストラ直前に、思い込みすぎて「死」を選択しかけたことさえありました。
結局、ある奇特な弁護士さんのおかげでそうせずに済みましたが、その後に決めた理念がありました。
「人々の心を豊かにし、笑顔あふれる社会づくりに寄与すること」。活かしてもらった命を人に役立つことに使いたい。その生き様が娘たちに遺せる唯一の財産であると。「子どもに誇れる大人になろう!」その究極テーマに基づいて立ち上げたのが、「下請の底力」、そして「チームともだち」でした。

自分の会社の再建は最優先事項ではありません。
人に役立つことをする活動の中で再建させねば意味ないのです。
ただ、小さな会社の経営ですらこの調子ですから、私に5万人の職場作りなんてできるはずもなく、だから周りのできる方々に協力をお願いすることが私の唯一できる役割だと思ったのでした。

初めて被災地を訪れる、そして怒涛の3年間がすぎる

2011年4月、群馬からバイクでの帰り道、いてもたってもいられず埼玉に戻らず、そのまま東北道を北上しました。まず震災後に保険の建物調査官として宮城県名取市と亘理町に入っていた福島市の知人に会いに行きました。原発事故後の福島のことも聞きたいと思いました。

名取でバイクを止めて唖然としました。そこは私の知っている風景ではありませんでした。
大型トラックや自衛隊車両が走るがれきの中を小学校4年生くらいの女の子が小さな男の子2人を連れてとぼとぼ歩いていました。何かを探しているように見えました。
いろいろ想像してしまって私は声をかけることができませんでした。

近所のコンビニはガラスに新聞紙が貼られていて中が見えません。防犯のためでした。
信号も電柱もなぎ倒されて、車はあちこちでひっくり返り、家はぶち抜かれて穴が開いており、船がこんな内地まで漂流してきていました。戦後を知らない私が、戦後を想像させるような状況でした。
匂い、埃、音、目に見える全てが、ニュース報道で感じた印象とは大きく違っていました。
翌朝に長女の入学式を控えて、ほんの1時間程度の滞在でしたが、帰りのバイクでは、ヘルメットの中でずっと涙が止まらなかったことを思い出します。

戻ってすぐに、さらに協力を求めるために首都圏の知人たちに会いまくりました。
「国も大企業も動くし(素人の自分たちが動かずとも)いいのでは?」との声には、野口健さんの言葉「まず現状を見てもらいたいです。出来たら一緒に運んでもらいたい。」を代弁していました。
首都圏周りがひと区切りすると、4-5月には沿岸部の復興イベントの支援に駆けつけました。
宮城県南三陸町の福興市、岩手県野田村のさくら祭り。岩手県に伺ったのは北京でお世話になった地元出身の方との出会いからでしたが、その方との会話を通じて、被災地の中期的な復興も見据えて、以下のような具体的な“ミッション”も見つかりました。

① 復興イベントを手伝ってくれる人を首都圏から連れていく。
② 津波で流されずに残った加工食品などを、賞味期限が切れる前に早く現金化したい
③ 地域資源を発掘したい

5月には岩手県久慈市と野田村に2週間ほど留まり、現地ニーズを首都圏の支援者に報告に帰る。
また現地に入り、首都圏からの支援者を受け入れて共に支援活動。
同時にニーズ調査をしてまた首都圏に報告。こんなことを当初はひたすら繰り返していた気がします。

しかし、岩手県自体が初めてで土地勘も人脈もない、“ミッション”は私にとって新たな挑戦で、首都圏にいる時以上に被災地では走り回り、もがいていました。そんな時に、現地では神戸から来られていた救援復興のプロの(阪神大震災を経験されている)皆さんと出会い、様々なイロハを教えていただいたことは、今思えば大変ありがたかったです。

2011年6月には、岩手県の水産加工品のインターネット通販サイトも立ち上げました。
この時も、(流通業が本業とはいえ)私は水産加工品を売ったことがありません。首都圏の問屋の知人たちに話をすると、「ロットが少なすぎる」「仕入れに行くには遠すぎる」など引き取ってくれません。被災地では様々な職種の方が支援していましたが、残念ながら被災地産品を全国に広めるために肝心の流通や営業職の方々にはほとんど出会ったことがないのも事実でした。

仕方なく、秋田県で米をネット通販する友人と「エイヤ!」とサイトを立ち上げ、首都圏マスコミに告知しました。お中元商戦なのに立ち上げは6月下旬、今思えばよくやったと思います。おかげさまで完売どころか商品も追いつかず、現地の皆さんに300万円程度をお支払いし、また、神戸の支援団体さんに10万円程度ですが活動資金の寄付もすることができました。

2011年夏には、いち早く三陸特産品のネット販売サイトを立ち上げた。

2011年は、野田村で地元小学生たちと出会い、一緒に「子ども新聞」を作るなどの活動を共に出来たことも大きな財産です。ただ夏休み後には、地元小学校から「2学期から通常の状態に戻そう」との方針。子どもたちの心を考えて、“被災地支援”という名目での県外小学校との協働やボランティアからの支援・寄付を受けず、自力で従来の姿に戻していきたいとのこと。私たちも子どもたちへの働きかけを自重することにしました。これ以降も、自分たちヨソモノの思いと、現地の皆さんの思いのズレ、被災地支援の難しさを知ることとなります。

一方、2011年6月からは「チームともだち」を立ち上げたご縁で、宮城県石巻市十三浜の漁師さんたちへの支援活動もスタートしていました。また、福島市出身の方との繋がりも生まれました。
2011年3月から最初の半年は岩手県九戸郡野田村に。次の半年は宮城県石巻市に。2012年は福島県の(自主)避難者の支援に。最初の2年間は出会った方々全てに、いわば“手当り次第”に支援に取り組みました。2013年には岩手県北上市の行政の皆さんと出会い、農村集落を支援するなか、2013年4月から岩手県北上市役所の地域・産業連携復興支援員に任命され、北上市に単身赴任。今は自治体側として岩手県沿岸部と内陸の支援活動をしています

「チームともだち」は多くの参加メンバーが“緩やかなネットワーク”で繋がったチームでしたが、
自分なりに、3年目からテーマを「支援」から「共生」にシフトしようと思いました。震災から2年を過ぎた頃、自分たちは何をすべきなのかと改めて問いかけ、3年目からは地域と自分たちが「共に良くなる活動をしよう」と思ったのです。現在「チームともだち」は社団法人ですが、理事9人中6人が岩手県、2人が福島県の方で、東北以外の出身者は私だけです。

北上市に拠点を移し、東北チームとの活動が主体となっていますが、将来の夢は、東北チームと、今までお手伝いいただいた首都圏チームが一緒に共に良くなる何かできたら・・・と思っています。

2.岩手県北上市に拠点を移し、地元住民として感じること

「被災者」でもあり「支援者」でもある、改めて知る内陸部の皆さんの苦労

最初に北上市から復興支援員のお話が来たとき、実は躊躇しました。
内陸部の北上市は直接に被害が大きな被災地ではないと思っていたからです。
しかし自治体職員をはじめ、皆さんの話から、内陸だからこその大変さを知りました。
北上市の皆さんは、「被災者」であり「支援者」でもある、両方の立場だったのです。

現在も北上市には500名程度の避難者がおられます。
また大船渡市と大槌町に見守り隊(仮設住宅支援員)や職員を派遣しています。
避難者に様々なケアをしながら、個人的に沿岸部に支援活動に行っている職員も少なくありません。 知人や親せきがいる人も多いからです。

役所の様々な部署が被災者支援のために頑張ってきました。
しかし、当時の話は飲んだ時にたまに出る程度、普段はそのような話はしません。
だから首都圏の人はほとんど内陸部の皆さんの苦労を知りませんし、本人たちも「仕事だから当たり前、宣伝することではない」と言っています。これは警官も自衛隊も消防も同じです。
北上市に限らず、他の被災地県でも状況は同じだと思います。

自治体だけでなく、様々な業界が同じように今でも支援活動を続けています。
製麺業界は年越しそばを何千食も毎年仮設住宅に届け、観光業界では内陸のホテル旅館が沿岸部のホテル旅館を援護射撃しています。工業界では沿岸部の被災工場に中古の設備や物資を支援し、教育業界では内陸の小学校の経費で、沿岸部の子供のための教育を行ったりしています。

現地に来て初めて、内陸側でものすごく頑張り続けている人たちがたくさんいることに気づきます。

一方で、内陸に避難された方々と沿岸部の方々の壁がどんどん高くなっていることも感じます。
ようやく沿岸部では高台移転などの話が進み始めていますが、その会合に内陸に避難された人たちはなかなか参加・協力ができていないのが実情です。そのため、復旧しても、沿岸部に残った皆さんがすんなり内陸避難者を受け入れられない状況があるとも聞いています。
同じような状況が福島県でもあると聞きました。

全国の復興フェアにも積極的に”営業マン”として参加。写真は岩手県更木の桑の葉の「さらっと茶」のキャラクター“くわちゃん”と。

地元の方からの罵倒、心のケアの重要性に改めて気づく

実は、北上市に移住後、飲み屋で私が「復興支援員」と知った地元の方に、罵られたことがありました。その方は倒産寸前の社長で数十万円の資金繰りができずにおりました。
「お前らに出す金があるなら、俺たちに回すのが筋だろ」と。
我慢しなければと思いつつ、この時ばかりは少し切れかかりました。
しかし、その瞬間、はっと気づきました。震災後、みんなが、様々な事を我慢して生きていることを。

被災地に限ったことではないですが、人間は本音をさらけ出す場が必要です。
分かりきった事ですが、仮設住宅に入居されている方々のストレスは相当のものです。
そのストレスをため込んだままでは、心が病んでしまい、自殺にも繋がりかねません。
本音をさらけ出し、それを受け止め、理解し、前向きな方向に誘導してくれる人が必要なのです。

震災前よりも元気な東北にしたい。

北上の強みの一つは「場所」です。
沿岸部の産品を流通・消費・購買者を増やすには、内陸部の役割が重要ですが、北上市は東北のクロスロードに当たり、青森、仙台、秋田、釜石と東西南北すべての主要都市まで2時間以内です。
昔から東北の流通拠点として、市内には物流センターも多くあります。

夢は、北上市という自治体もまた、他の自治体を繋ぐ東北のハブになってほしい。
北上市だけが良くなるのではなく、北上市が他地域に仕事や情報を繋ぐ“商社”機能を発揮出来るのでは?と思うのです。

私の活動範囲は北上市と沿岸部に留まらず、福島、宮城、岩手と広範囲、到底一人では動けません。地域というより、プロジェクト単位で任務にあたり、プロジェクトを通じて少しずつ、市役所の皆さんとの信頼関係も築いてきました。ただ、行政には人事異動があります。新しい出会いが常にある一方で、せっかく築いた信頼関係が途絶えてしまう難しさも改めて感じています。

とはいえ、夢の実現のために、まず動いてみるのは変わりません。
観光都市の鎌倉市とのパートナーシティの締結に動いているほか、
2020年のオリンピックを見据えて東京都の江東区、新宿区、中央区との連携、
私の地元に近い千葉県流山市での北上市産品の販売も働きかけている最中です。
国内だけでなく、シンガポール、マレーシア、インドネシアなど海外とも連携できたら。
私の妄想は果てることなく、日夜、ネットワーク創りに努めています。

3.皆さんからもアイデアやヒントをください。

「地域・産業連携復興支援員」としての任期は最長で5年間。前述のとおり私の本業も再建中なので、経済的にギリギリ頑張れるところまではやり抜こうと思っています。
①民間企業の代表者 ②NPOの代表者 ③地方自治体と3つの立場ですが、性格的に器用でないため、自分の中では“民間企業の代表者”が社会貢献事業として“NPO”を運営し、その任務の一環として今は③地方自治体との活動に集中していると思っています。

ドリームプランプレゼンテーション2013にも参加

実現したいアイデアはたくさんあります。職務上、公言できる範囲でお話しますと….。

■東北の自治体に「ふるさと納税」の活用を推進するプロジェクト

ここで目指しているのは、「四方よし」の体制作りです。
一般的に知られるのは「三方よし」、つまり ①「作り手」(生産者) ②「売り手」(販売者、流通者) ③「買い手」(消費者、購買者)の3者ですが、震災後の活動を通じて、三方よしだけでは足りないことが分かりました。④「弱者」(被災者、地域弱者)が抜けているのです。

東北にかかわるなか、そもそも最初から④を援護する社会の仕組みが存在するべきでは?と考えるようになりました。①②③が儲かったらではなく、最初から④への支援分を想定し「残った分から儲けをとる」のです。

経営者は皆「会社は公器、社会に役立つために存在する」と知っていますが、社会への利益還元について金額や割合が決まっているわけではありません。法人税なども利益額によって変動します。
しかし、これでは支援される側にとってはつらいです。例えば高齢者向けのコミュニティーバスを支援金で運営していても、毎年入ってくる金額が変わってしまうと定期運航ができなくなります。
定期運航ができなくなると、利用する地域弱者は定期的に病院にも買い物にも行けなくなります。

①「作り手」(生産者) ②「売り手」(販売者、流通者) ③「買い手」(消費者、購買者)が売上や儲けに左右されることなく、電話の基本料金のように毎年決まって寄付をするという仕組みが必要ではないだろうか。その一つの方策が「ふるさと納税」の活用ではないかと考えました。

例えばですが、1万円のふるさと納税に対して納税者に4千円の地域特産品が届くとしたら、自治体は差額の6千円が歳入になり、使途先の支出が軽減されます。地域業者は4千円の売上になります。寄付者は寄付控除があり、最大3千円の負担で済みます。使途先は目的が達成できます。

これは正に「四方よし」ですが、理想のキーワードは「定期的に」です。
一時的ではなく、これを定期的に使途先に支出するには「基金の設立」と「リピーターの確保」、そして基金の予算化だと思っています。例えば毎年10億円の積み立てをふるさと納税で賄えなかった場合、自治体が不足分を支出して積み立てる、逆に多かった場合は基金ですから次年度への持越しが可能です。そのことで市民活動に対しての支出枠が広がります。

まだまだ具体的に運用するには、仕組みを詳細に検討しなければなりませんが、「四方よし」の社会システムを創る、有効な方法の一つではないかと思っているのですが、いかがでしょうか。

これ以外にも….

■自治体と民間が一体となったシティ・セールス活動

ディベロッパーと自治体がタイアップしたシティセールスは多々ありますが、さらに教育、市民団体、一次産業者、二次産業者、商店街、産直などが一体となったシティー・セールスの仕組みづくりに取り組んでいます。

■沿岸被災地との連携

沿岸部の自治体職員数は今でも震災前の半数程度で回しているところも少なくありません。
そのため、2014年4月からの年度では沿岸部への派遣職員を増やす計画だそうです。
4年目だから減らすと思っている人も多いと思いますが、実はそうではないのです。

しかし、他県・地域からの派遣は1年間単位などの任期が多く、先ほどのふるさと納税のような中期的な体制づくりが難しい現状もあります。だからこそ、自治体間の連携を深めていきたい。
例えば、“ふるさと納税”を自治体間の連携で被災地を含めて東北全体に広げることが出来たら、そのためにも、まずは北上市で一つのモデルケースを創れたらと、“ふるさと納税”についての地域の成功事例など研修も始めました。

■地元コンテストの開催から海外へ

実際に住むと、東北、特に北東北には首都圏人が見て面白い事がいっぱいあります。
例えば、東北の皆さんが熱くなるキーワードの一つが「ご飯の炊き方」。自治体職員も実家が水稲農家で、繁忙期には休日や早朝にコメ作りを手伝う人が少なくありません。
ふと思いつくのが、自治体職員による「ごはん炊き方対決コンテスト!」をやったらどうだろう。
職員対決、民間対決、ご飯のお供対決、妄想ついでに、2020年の東京オリンピックの選手村に地元米を採用してもらい、炊き方とセットで海外に売り込んだら。いわば「TPP対策プロジェクト」 (笑)

先日、9万人都市の北上市で復興支援団体が復興支援ポジウムを開催しました。定員200名が満席で立ち見も出るなど、震災の風化が懸念されていますが、深いところで繋がっていると感じました。
落ち込むことも、力量不足を感じることもしょっちゅうです。
けれども、日夜、妄想は続く、動き続けるつもりです。
(2014年3月11日)
●登内 芳也氏 Face Bookサイト(最近の活動をご紹介しています)
●北上市ホームページ

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