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関東大震災から100年。いま、私たちが備えるべきこと
関東大震災から100年。そして、まもなく東日本大震災から13年が経過します。首都直下地震や南海トラフ地震など新たな災害も懸念される中、能登半島地震は発生確率が低いとされてきた地域でも大地震が起きることを示しました。いつ起きてもおかしくないといわれる大地震に私たちはわが身をどう守ったらよいのでしょうか。(2024年3月5日公開)
作家・武者小路実篤が体験した100年前の関東大震災
武者小路実篤記念館(調布市若葉町)が発行する『館報「美愛眞」45号』に作家・武者小路実篤の震災体験が掲載されていました。
実篤自身は、大正7年から宮崎県に仲間たちと創設した「新しき村」に居住しており、大震災に直接遭遇したわけではありませんが、実家が麹町(現在の千代田区1番町)にあり、母親や家族はそこで震災に遭っています。
興味深いのは実篤が震災を知ったのは震災から3日後の9月3日だったこと。その日に脱稿した『或る男』の序文に追加として、「正直な処、自分はこの序文をかいた時まだ東京に大地震があったことを知らなかった。之をかいて五時間程あとに宮崎の新聞が来て、初めて地震のことを知り、あわてゝ東京に出て来た」と述べています。
東京で暮らす母を心配して実篤は宮崎の村を飛び出すと、途中、妻の安子が仮寓する山口を経て、京都で親友・志賀直哉を訪ねます。志賀は震災後すぐに東京に行き、戻ったばかりで、「君の家族は無事だ」と聞いて安堵します。
一刻も早く母を慰めたいと焦る実篤でしたが、東京には戒厳令(戦時や災害時の混乱や犯罪を防ぐため軍隊に行政権や司法権を移行すること)が敷かれ、東京に入るには許可が必要でした。外務省に勤める学習院時代の友人の手助けでようやく許可が得られ、超満員の列車で東京に向かいました。(地震や津波で東海道線が壊れ、信越周りだったようです。)
麹町にあった実家は9月1日の地震で傾き、その後区内から出火した火災で2日未明に全焼していました。親戚の甘露寺家に避難していた母親とようやく再開し、二人が泣いて無事を喜ぶまでには震災発生から1週間ほどかかったようです。
実篤は「焼けたものに未練を持つほど、馬鹿ではない。母と実光(おい)と、その他僕の家にいた人が誰も無事だったことはありがたかった」と振り返っています。
以上は、解説シート『もっと知りたい武者小路実篤74関東大震災から100年 実篤、被災地・東京へ』からの引用ですが、交通手段だけでなく、電話などの通信手段、テレビやSNSなどの情報発信も十分ではなかった時代のものだけに、いま思うとずいぶんゆったりしたものに思えます。
実篤の体験を100年後の「いま」に置き換えたらどうでしょう。100年前に比べると社会インフラが発展充実しているがゆえに、大きな地震に遭遇した場合の社会のもろさが憂慮されます。
先頃起きた能登半島地震では、道路、通信、電気、水道などが大きな打撃を受け、高齢化が進む地域の復旧の困難さをあらわにしました。社会が便利になり、複雑になっているがゆえに、災害への備えが一層重要になります。
首都直下地震に備えよう
内閣府防災情報の「みんなで減災」のページには、「首都直下地震の被害想定と対策について(最終報告)」が掲載されており、下のような被害想定が登場します。
先頃、東京都は『東京都オリジナル防災ブック』を各家庭に配布しました。開封すると表紙が赤色の『東京くらし防災』と表紙が青色の『東京防災』の2冊が入っています。
『東京くらし防災』は、万一の災害にどう行動すべきかを書いた行動篇。もう一つの『東京防災』は、防災意識を高めるための知識編といったところでしょうか。どちらも頻繁に起きる新たな災害体験を反映して改訂しており、今回配布されたものは2023年改訂版となっています。
本誌では、赤色の『東京くらし防災』を参考に、基本的な災害への備えや災害時の行動ルールにしぼって、読者の皆さんに災害に備える行動のポイントをお知らせします。
1.「いま」できる備え!
能登半島地震では、「持病薬や常備薬を持ち出せずに避難し、困った」という高齢者が多くいます。阪神・淡路大震災では「枕元に落ちてくる物、倒れてくる物や家具を置かない」という備えをしていて助かったという40代がいました。また、東日本大震災では「一人暮らしで冷蔵庫が空っぽだったために食料で苦労した」という30代の話が聞かれました。
私たちは、自宅だけでなく、オフィス、街中、地下街、駅や空港など、どこで災害に遭遇するか分かりません。普段から危険ポイントを感知し、なくす、少なくすることが防災の第一歩です。
自宅では大型家具、家電、照明器具などに転倒等防止対策を行いましょう。そして、買い物では最低3日間分を目安に水・食料などの備蓄をしましょう(災害時の備蓄は自治体や職場も行っていますが、元旦に起きた能登半島地震では地域外からの訪問者も多く、備蓄した食料は瞬く間に底をつきました。状況次第で1週間分くらいの備蓄が必要という専門家もいます)。
いざという場合に備え、防災グッズは一度実際に使ってみることも大切です。カセットコンロや備蓄品で食事タイムを楽しんでみたり、簡易トイレを使ってみたり、電源や明かりの確保も試しておいてください。
都内ではマンションなど共同住宅の居住者が約900万人にものぼります。マンションは耐震性が高い建物が多いとされていますが、高層マンションではメリットと同時にエレベータが使えなくなったり、トイレが使えなくなるデメリットも考えられます。日頃から居住者の間でルールを決め、備えておくことが大切です。
台風や豪雨が発生しそうなときは、①気象情報に注意する ②区市町村避難情報に注意する ③早めに避難行動を開始する、ことが重要です。
なお、スマートフォンをお持ちの方は万一に備えて防災アプリを入れておくと便利かもしれません。
2.「いま」災害が起きたら?
万一、地震に遭ったら、「身を守る」「つかまる」「危険から離れる」の3つが最初の基本です。揺れが収まったら「ケガに注意」しつつ、「火の始末」「出口の確保」をしましょう。能登半島地震では、建物の倒壊による圧死が死因の多くを占めました。普通の住宅では、できるだけ早く外に避難しましょう。また、津波が予想される地域では、すぐに高台に避難しなければなりません。
東日本大震災や能登半島地震では、火事も被害の拡大につながりました。調理中なら火元を遮断し、電気ブレーカーを下して避難します。ただし、再び家に戻ってもすぐにブレーカーをあげないことも大切です。電気の復旧時に通電火災(停電した電気が復旧した際に起こる火災)が発生する可能性があるからです。
地震発生時の建物火災の原因の約6割は電気が原因の出火です。能登半島地震における輪島朝市通りの火災も電気の漏電でした。こうした事故を防ぐため、電気を自動で遮断する「感震ブレーカー」の普及が急がれています。
さて、災害に遭遇し、自宅などで安全が確保できなかったら、避難や移動が必要になります。発災後に自宅で居住できなくなったら、行政が決めた「避難場所」「避難所」に加えて、親戚や知人宅も避難先となります。
能登半島地震では、道路、水道、通信、交通が寸断し、居住する地域から他の自治体や県外の知人宅に移動した方がかなりの数に上っています。万一の災害を想定して、日頃から複数の避難場所を検討しておくことも必要かもしれません。
その際、義務教育の児童がいる家庭では子どもたちの学校の運営も大きな判断要素となり得ます。
3.「いま」考えよう!被災後のくらし
「自宅にいても危険がない」かどうかが被災後の暮らしの大切な判断目安です。家屋の倒壊、火災、土砂災害などの心配がなければ、自宅にとどまることもできます。自宅が危険で、病気やケガなどもあり、医療などの支援も必要なら、避難所という選択肢があります。(長期化するようなら応急仮設住宅という選択肢もあり得ます。)
「人目の多い避難所生活はとても大変でした。でも普段から顔見知りの地域住民との生活なので、気は楽でした」と岩手・宮城内陸地震の経験者は語っています。最近の避難所は「仮設トイレにも細かな気配りがあり、女性用トイレには生理用品や芳香剤が備えられていました」と新潟県中越地震の経験者は語っています。
最近の避難所では、役割分担で助け合おうとする動きもみられます。災害関連死を防ぐためには、十分な睡眠が大切になります。不安や心配は一人でため込まず、必ず相談しましょう。
生活再建には、「罹災証明書」を申請し、取得することからスタートします。災害で家族が死亡した場合の弔慰金、生活再建の支援金、融資、税金や保険料の減免・猶予などの経済支援制度があります。
子どもたちへの教育支援・子育て支援も活用しましょう。
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