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世界に触れる 日本に触れる各国大使館員日本語スピーチコンテスト2025
各国の外交官や大使館員が日本語でのスピーチを競う各国大使館員日本語スピーチコンテスト。1998年のスタートから今年で28回目となります。本年は9カ国11名とやや少ない人数となりましたが、参加者はそれぞれの貴重な経験を交えて日本語と日本文化に対する造詣を披露しました。受賞した5名のスピーチを紹介します。

外務大臣賞 「日本が教えてくれた“私のキルギス”」
キルギス共和国大使館 ソルトバエワ・ジャミリャ

キルギスから来たジャミリャと申します。夫はキルギス共和国特命全権大使です。大学で日本語を学び、母校の大学で日本歴史の講師もしていました。
でも、当時は日本で大使館の一員として働くことになるとは想像していませんでした。現在、日本の文化行事に招かれたり、日本の皆さんに料理教室などを通じてキルギスの文化に触れていただく場を設け、友好促進のお手伝いをしています。
私が特に興味を惹かれるのは日本の文化です。近代と伝統が共存する日本社会で、代々受け継がれてきた行事、人々の丁寧な言葉遣い、それらすべてに歴史の重みと心の豊かさを感じます。
日本文化に触れ、キルギスの文化を紹介する機会が増えるにつれ、私は母国のキルギスについてどれだけ知っているのかと思うようになりました。神戸外国語大学で母国語を教える機会をいただいたときです。母語なので教えるのは簡単だと思っていましたが、実際はそうではありませんでした。文法、ことわざ、言葉の由来などあらためて学び直すことが多くありました。
ある日、「キルギスの暦の月の呼び方が数字と一致していないのはなぜですか」と質問されました。キルギス語では10月は9の月、11月は7の月、12月は5の月と言います。なんだか逆のようになっていますが……私は疑問に思ったことなどありませんでした。
調べると、暦の中に昔の人々の暮らしが残っているのが分かりました。遊牧民のキルギス人は、秋になると移動するのをやめます。次の遊牧を始める春までに馬と羊を税として納めるのですが、一度に納めてしまうのではなく、10月から毎月2頭ずつ5カ月にわたって納めていました。月が進むにつれ、2つずつ減っていくのです。でも10月は2を引いた8の月ではなく、9の月です。税を納め終わる2月に家畜の数がゼロになってしまわないよう、最初から1を足しておくからです。
受講生の中にキルギスのシンボルである『マナス』をじっくり3カ月かけて読んだ人がいます。『マナス』はユネスコの無形文化遺産にも登録されている世界最長の叙事詩です。それを最後まで読んだ彼のキルギスへの興味を考えると胸が熱くなります。私ももっと学ばなければと思いました。
日本は自分を映してくれる鏡です。日本という鏡をとおして私のキルギスが見えるようになりました。私を育ててくれた、キルギスの文化を大事にし、誇りと感謝をもって毎日を過ごしたいと思っています。
文部科学大臣賞「一緒に勝つ外交」
サウジアラビア王国大使館 アブドラル・アラシード

初めに“努力”という言葉について話させてください。正直にいうと、私はこの言葉があまり好きではありません。“努力”には、筋肉痛、涙、睡眠不足というイメージがあるからです。皆さんも経験があるでしょう。大好きなゲームを徹夜でやっても努力したとは言いません。なぜなら楽しかったからです。
日本語の勉強も同じでした。最初は漢字がまるで呪文のように見え、本当に大変でした。でも、レストランでメニューを読めるようになり、駅で迷子にならなくなったとき、努力が実ったというよりも楽しいと思いました。日本の方に「努力をしたんでしょう」と聞かれると、「楽しんだだけです」と私は答えました。
いま私は政府の仕事をしながら大学院生として公共政策を学んでいます。昼間は会議や調整、夜は勉強やレポート、土日は寝たいですね(笑い)。
遠くから見ると努力に見えるかもしれませんが、実際はそうでもありません。いまは強力な味方がいるからです。そう最新のテクノロジーです。授業はまずオンラインで調べ、資料はクラウドで保存でき、またAIツールも活用します。
だから私は勉強と仕事の両立=努力だとは思っていません。自分のライフスタイルであり、変化の早い時代を生き抜くための生き方だと思っています。“努力”は我慢ではなく、未来にワクワクするためのものなのです。
“外交”も同じだと思います。誰が勝つかではなく、どうすれば一緒に勝つかを考えることだと思います。
この経験を通じて私は、“一緒に勝つ外交”の4つの柱を学びました。1つめは「立場ではなく、利益に注目すること」。要求の裏にあるなぜを理解すれば、新たな協力の道が見えます。2つめは「問題と人を分ける」。人を責めず、どうすれば問題の解決につながるかを考えること。3つめは「公平な基準に頼る」。力や感情ではなく、共有できる基準を使って公平さを守るのです。4つめは「みんなが得する妙案を持つこと」。一方的な処理ではなく、双方が笑顔になれる第三の道を追求することです。
たとえば、家族の旅行でも、海がよい、山がよいとそれぞれ主張すればケンカになります。自然の中でリラックスしたいという共通の利益を求めれば、温泉という新しい答が見つかるかもしれません(笑い)。私は日本での暮らしを通じて日々外交の本質を学んでいます。
八木通商賞「クリックより握手」
アメリカ合衆国大使館 アンドリュー・リ―

先日、息子と電車に乗ったときの話です。息子は座った途端、ポケットからスマホを取りだし、横浜から新橋まで一度も顔を上げませんでした。電車を降りてから息子に尋ねました。「何してたの?」「友達とゲームやっていた」「学校の友達?」「いろいろ。日本、アメリカ、ベトナム、多分メキシコも。ネットで知り合った」
息子は京浜東北線に座りながら、何千キロも離れたところに暮らす友達とやり取りできるのです。
実は40年前、私も当時の高度な技術を使って外国の人たちと話しました。祖父がやっていたアマチュア無線です。初めて日本人の声を聞きました。
(ジェスチャーで当時の無線通信を再現)当時は電波がすぐに弱くなり、多くの場合、名前やコールサインしか交換できませんでした。その短いやり取りで、私はいつか自分の目で日本を見てみたいと思いました。現在、アメリカの子どもたちは家で『ポケモン』や『鬼滅の刃』を簡単に見られるようになりました。海外が身近になったことで、異文化の神秘が少なくなったように感じます。
あのアマチュア無線の交信をきっかけに私は日本で英語の講師となりました。最初は失敗の連続でした。教壇の上に腰かけて自己紹介したり、お土産を買ってくることを知らずに、旅行から手ぶらで帰ったりしました(笑い)。
失敗後の反省から日本の文化やマナーが少しずつ分かるようになりました。これは日本で生活してこそ学べることです。穴があったら入りたい場面でも、電源OFFはできなかったのです。いまの若者は1クリックで海外の若者とチャットができますが、ゲームをしながらなんとなくチャットをするとどんな交流が生まれるでしょうか。
むしろ外国で異文化に身を置き、世界をより深く学んだ方がよいと思います。うちの息子も“百クリックは一見にしかず”と、現実の世界と向き合ってほしいものです。
私が祖父の無線交信を通じて日本に興味をもったように、子どもたちの世界への好奇心を育て続けることが大切です。今回のイベントのように、外国の人々と直接会って、握手し、互いを知る機会を与えてください。互いの文化の中に身を置くことは、ネットよりはるかに深い学びを与えてくれます。「クリックよりも握手」なのです。
敢闘賞「なりたい」
アメリカ合衆国大使館 キャサリン・ター

私は少し疲れて見えるかもしれませんね。3歳と1歳の子どもを育てている母親です。40歳を過ぎてからの出産で、1人から2人へのステップアップは想像以上に大変でした。2人の子どもは心から愛しています。
私たち人間はなぜわざわざ難しいことに挑むのでしょうか。日本語を学ぶ人はそのきっかけについてよく聞かれますよね。
私のきっかけは高校生のときでした。初めて日本映画を字幕付きで見たのです。「なんて美しい言語だろう。まるで音楽みたい」と思い、大学に入ってから日本語を学び始めました。なぜ日本語に魅了されたのか、自分でもうまく説明できません。
大学3年生のとき名古屋へ留学しました。すぐに現実の壁にぶち当たりました。みんな何を言っているのか全く分かりません。やさしいホストファミリーに支えられましたが、理解できないことばかりでした。電話カードを買って母に電話したとき、涙が止まりませんでした。
小さな成果が少しずつ積み重なりました。電話で何かを注文する、中古品の値段を交渉すること、毎週日曜日、私はインターネットカフェまで歩いて出かけ、アイスココアを注文するとログインしてブログで経験の記録をつづりました。卒業後、JETプログラム(語学指導等を行う外国青年招致する日本の事業)に出会い、国際交流員として再び日本に来ました。
海外で働くことは全く新しい挑戦でした。お金の使い方、ゴミの捨て方、敬語の使い方、机の電話が鳴るたびに感じたのは、恐怖でした。
新しい友達ができ、全力で働き、思い切り遊びました。それでもまた人生で何かを成し遂げたいという衝動に駆られました。
でも一体私に何ができるでしょう。あるとき大学時代の先生に相談して、外交官について調べました。海外で暮らし、外国語を学び、人と人をつなぎ、国際理解に向けて働くこと。その魅力をより強く感じるようになりました。2006年、東京で初めて外交官試験を受けました。一発合格はできませんでしたが、その引力はますます強まりました。最近、トンボの生態を知って感動しました。トンボは一生の半分以上を水の中で過ごし、ある日、抑えきれない衝動に駆られて水面へとのぼります。そこで背中が割れ、新しいカラダが生まれます。
私もこのトンボのようになりたいともがいています。もっと何かになりたいと……。私たちはこの瞬間も常に何かになり続けているのではないでしょうか。私の原点は初めての留学の際に書いたブログです。その名前をいまもSNSで使います。それが私の思いをすべて表しています。「なりたい」と。
審査委員特別賞「東京の魂は銀杏」
メキシコ合衆国大使館 コスメ・ガルシア

夏目漱石は名作『こころ』の中で、先生から「もう少しすると、綺麗ですよ。この木がすっかり黄葉して、ここいらの地面は金色の落葉で埋まるようになります」と言わせています。
東京はもうすぐ銀杏の木が紅葉し、上も下もその魂を見せるのです。しかし、なぜ私は銀杏の木を“東京の魂”というのでしょうか。
30年ほど前、私は横浜に住んでいました。そのとき見た春の桜をいまでも思い出します。満開の桜が咲き誇る横浜の公園を歩いたとき、東京の上野公園で小さなチョウのように舞う桜の花びらも覚えています。桜は横浜や東京だけでなく日本全体の楽しみだと知りました。しかし、横浜に住んだ2年間は銀杏の木を一度も見たことはありませんでした。こげ茶色の銀杏の木は見ていません。覚えているのは茶碗蒸しを発見したことです。甘くないカスタードだと思いました。そのカスタードは食べた瞬間から大好きになりました。そこにはギンナンが入っていました。いつの間にか、私はギンナンに魅了されていました。
ギンナンを理解するようになるのはある秋のことです。国会近くの六本木通りをジョギングしていたとき、地面で何かを拾っている老夫婦にぶつかりそうになりました。腐った臭いのするものを拾っていたので驚きました。「何ですか?」と聞くと、「ギンナンです。煎って食べるんです」と言われました。私は衝撃を受けました。大好きなギンナンは大好きな銀杏の実だったのです。
そのとき、なぜ銀杏の木が日本人の魂の中で、桜の木と並ぶ地位を占めることができないのかという理由が分かりました。あの悪臭を吸い込んだとき、これでは銀杏は桜に勝てるはずがないと思いました。それでも私は銀杏の木に対する愛着をかき消すことはありませんでした。
私はメキシコ北部で育ちました。そこではほとんどの植物はトゲで覆われています。
東京都は銀杏の葉を都庁の公式なシンボルにしています。だからこそ、漱石の『こころ』に登場する先生が、秋の紅葉の美しさを語ったのです。昨年、30年ぶりに再来日した私は再び外苑前をはじめ銀杏の名所を歩きたいと思っています。

文部科学大臣賞のサウジアラビア王国アブドラル・アラシードさん(右)

※受賞者のスピーチは、当日お話された内容をもとに当編集部で要約しています。ご理解ください。
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