CSRフラッシュ

障がいのある子どもたちと社会はいかに向きあうべきか

視覚や聴覚など言語機能に障がいのある子どもとその親たちは、どのように暮らしているのだろうか。48回目を迎えた「聴覚障害児を育てたお母さんや家族をたたえる会」から、子どもたちの日常と親たちの奮闘を追ってみました。

あいさつする山東昭子会長

障がいのある子たちの自立と社会参加を応援しよう

公益財団法人 聴覚障害者教育福祉協会(山東昭子会長)が主催する第48回「聴覚障害児を育てたお母さんや家族をたたえる会」が都内で開催されました。

同会は、2024年までは「聴覚障害児を育てたお母さんをたたえる会」という名称でしたが、父親の存在が希薄すぎるとの声もあり、2025年からは会の名称に「家族」が入りました。以来、父親たちの参加も徐々に増えています。今回は全国16都道府県から25名の父母や家族が受賞し、埼玉県難聴児(者)を持つ親の会の明賀春樹さんが代表して表彰を受けました。

当日は全国聾学校作文コンク―ルの金賞受賞者3名にも賞が贈呈されました。下の賞状を持つ3名ですが、中央から文部科学大臣賞を受けた大阪府立中央聴覚支援学校の神崎加帆さん、その左が全国聾学校校長会会長賞の愛知県立千種聾学校の生川照さん、その左が聴覚障害者教育福祉協会会長賞の筑波大学付属聴覚特別支援学校の佐々木絢可さんです。

また、聴覚障害を持ちながらもプロのカメラマンとして活躍する東京都の持田昭俊さんに、桜内義雄賞が贈られました。桜内義雄さんは元衆議院議長ですが、長らく「聴覚障害児を育てたお母さんをたたえる会」の会長を務めてきました。この賞は障がいを持ちながらも社会貢献される方に贈られるものです。

本誌では、「たたえる会」の第2部で行われた3名の方の発表を紹介します。障がいを持った子どもとその家族の日常の一端が読者の皆さんと情報共有できればと考えたものです。視覚障害者、聴覚障害者、知的障害者、肢体不自由者、および身体虚弱者を含む病弱者は、学校教育法では特別支援学校で教育が行われることになっています。最近の調査では、特別支援学校で学ぶ小学生と中学生の数は約68万人になると言われています。


家族の体験から

障がいのある子どもたちにも、すばらしい体験の場を

埼玉県難聴児(者)を持つ親の会 おやじの会 明賀 春樹 

おやじの会 明賀 春樹さん

「おやじの会」が始まったのは1982年のこと。当時、お父さんは仕事、お母さんは育児が当たり前でした。役員のお母さんからは「お父さんたちももう少し頑張らなきゃ」との声がありました。それまでは聴覚に問題があるわが子が母親と話をしていても、私はポツンと横にいるだけでした…。

父親として何かしたいという思いはもちろんありました。そこで誕生したのが「おやじの会」でした。初めは悩みを話すという名目で飲み会などを開いていましたが、少しずつ行事を計画しました。

まず、2泊3日の「夏季合宿」を行いました。これは1984年に始まって今も続いています。小学生以上を対象にキャンプファイヤー、山登り、ハイキング、そして飯盒炊飯をやっています。普通の家族ではできないようなおおがかりなものをめざしています。

毎年ほぼ同じ行事内容となっていますが、情報の獲得に弱い障がいのある子たちには繰り返すことで行事の様子が伝わり、安心感につながると考えたものです。低学年の子も上級生になればどんな役割を果たすのかが分かるようにしました。高校生くらいになればボランティアとしても参加できるようにしています。

最初は失敗ばかりでした。たとえば、当初は暗い中でのキャンプファイヤーだったのですが、視覚に障がいのある子には暗すぎたのです。聴覚障害児を持つ親たちでさえ、そんなことも理解できていなかったのです。先生方からのアドバイスもあり、その後は改善をしました。

小学4年生になると、女の子は女神や火の子の役になります。男の子は山賊になって暴れます。飯盒炊飯では小さな子が初めて薪をくべて、飯盒でご飯を炊くという経験をします。ハイキングではボランティアのお兄さんやお姉さんと楽しくすごします。

中学生になると参加しない子が増えてきました。そこで上級生たちも参加できるよう1991年間から2泊3日でスキー合宿をすることになりました。子どもたちだけの参加で、自分の身の回りの世話がでできる小学校4年生以上を参加資格としました。思惑どおり中学生や高校生も喜んで参加してくれました。

埼玉県では小学6年生や中学1年生になるとスキー林間教室が行われます。そこにスキー初心者の聴覚障害児が参加すると、聴覚障害児は置き去りになっていました。

「おやじの会」のスキー合宿は4年生からやるので、そこに参加すれば、スキー林間教室でも置き去りにされないどころか、ダントツにうまく滑る子がでます。文字情報やジェスチャーで指導します。

先ほどから「おやじの会」主催としていますが、実は書類作成だとか、買い出しだとかには女性の役員の力を借りています。お父さんたちも頑張っているねと乗せられ、「おやじもおだてりゃ木に登る」が実態かもしれません。

「おやじの会」の別組織に埼玉県難聴児「キコエノワ」という組織もあります。合宿等でつながった障害児の先輩たち、大学生や社会人が中心となって「おやじの会」のイベントにボランティアで参加してくれています。

「キコエノワ」には、スマイルプロジェクトという活動があって、ポスターなどを作成し、県内の療育施設を回って、「自分たちが合宿で経験したすばらしい経験を若い仲間にも経験させてほしい」と伝えています。一時は合宿の参加者も減っていたのですが、最近は回復しつつあります。障がい児を持つ親御さんにとって、成長した彼らは将来のわが子のロールモデルであり、とても力強い声援になっています。


子どもたちの日常から


私の顔


全国聾学校作文コンクール金賞(文部科学大臣賞受賞作)
大阪府立中央聴覚支援学校 中学部3年 神崎 加帆

神崎 加帆さん

私は遺伝子の突然変異によって起きる顔の障がいを持っています。この顔で生きて15年。生きれば生きるほど、顔のせいで心が削られています。気づいたのは5歳のとき、近所のスーパーで同じ年の子に「かお、へん」と言われました。何気ない一言でしたが、私の世界は一気に色を失いました。

それまで、自分の顔を「変」だと思ったことはありません。むしろプリキュアになりたいと思っていたくらいです。鏡で何度も自分の顔を見ました。しかし、写っていたのはいつもの顔。どこが変なのかわかりません。

次の日、まわりを気にすると、揺れる電車で冷たい視線がわかりました。私はみんなと違うということに気づきました。周りの視線を気にして、帽子で顔を隠し、母の後ろに隠れて歩くようになりました。

小学校では、少しずつ受け入れてくれる友達ができました。小学3年生のときに陣内智則さんやさや香さんにハマり、お笑いファンになりました。学校では迷わず手を挙げてお笑い係になりました。スベるのは怖かったけど、クラスでネタを披露すると、笑い声と笑顔が返ってきました。

「こんな私でも輝けるんだ」

これまでで一番生きている心地がしました。しかし、楽しいのは学校の中だけ。通学電車では、「顔どうしたの?」と何度も聞かれました。女の子だから、少しくらい可愛いと思われたかった。でも、毎日傷ついたまま学校に行くのが当たり前になっていました。やがて限界がきて、不登校に。

「なんで学校に行かないの」と親に聞かれても、「顔が原因」とは言えません。「頭が痛い」「お腹が痛い」とごまかしました。それが卒業まで続きました。

中学校は支援学校を選びました。同じような障がいを持つみんなに出会い、初めて見た目を気にしなくていい空間を得ました。しかし、それも学校の中だけ。通学の電車では冷たい視線に耐えなければいけません。「普通に見られたい」と思う自分と、現実とのギャップに苦しみました。

しかし最近、気づいたことがあります。この顔ですが、悪いことばかりではありません。押しの芸人さんのライブに数回行っただけで、すぐに顔を覚えてもらえました。良くも悪くも印象に残りやすいのです。「人に残る顔」だって、少しだけ武器にできるかもしれません。

私はこの顔と一生つきあっていく運命です。必要なのはまわりに流されない強さと、引きずらない心。私は決めました。顔で生きるんじゃない。どれだけ笑って、どれだけ誰かを笑顔にできたかで、自分の価値をつくっていきたい。そしていつか、誰かに伝えたい。「顔がすべてじゃない。あなたにも、ちゃんと居場所があるよ」って。


社会人での体験からら


家族と支えあってできた、鉄道カメラマンへの道


桜内義雄賞受賞者 東京都 持田 昭俊

持田 昭俊さん

私は1960年に東京墨田区で生まれました。1歳のときに高熱が原因で感音性難聴になりました。通院の度に待合室でなきわめく子でしたが、走る鉄道を見せると泣き止んだそうです。父は指輪やネックレスをつくる仕事に就いていました。母は小学部の低学年まで電車で聾学校に私を送迎する毎日でした。私の一番の楽しみは蒸気機関車と新幹線を描くことでした。

聾学校では勉強ができ、手話も使わず、明瞭な発音もできる生徒だとされていました。聾学校を卒業して地元の中学校に入学しました。中学の授業では先生の難しい言葉を口話で読み取るのが困難だと感じました。成績は下がる一方でした。「お前の発音は変だ」と同級生から毎日いじめられました。手話を使わないで、声を出して話すようにと、難聴学級の先生からも注意されました。悔しくて、毎日泣いていました。いじめられていることは、母には言いませんでしたが、母はうすうす分かっていたと思います。

休日になるとカメラを持って上野駅に行き、特急「はつかり」「ひばり」を撮りまくりました。その瞬間、嫌なことはすべて忘れました。その後、生徒数が千人くらいの普通高校に入学し、写真部に入り、勉強そっちのけで、暗室でのプリントの引き延ばしに夢中になっていました。今度こそいじめられないようにと明るくふるまう高校生でした。

卒業と同時に筑波大学付属聾学校高等部専攻科(当時)に入学しました。聾学校にUターンする形となりましたが、手話で勉強する楽しみを知ったのはその頃でした。1年生のときにデザイン課に上田久三先生が赴任してきました。若くて面白い先生でした。先生の指導のおかげで千葉電通賞を受賞しました。この頃からプロのカメラマンになりたいという気持ちが芽生えてきました。しかし、周りからは猛反対され、家業の宝石デザイナーの道に進みました。

アマチュアカメラマンとしての活動はずっと続いていました。当時は両親が出版社にアポを取り、出版社には一人で出向き、編集長に写真を見てもらいました。『月間キャパ』という写真雑誌の1987年12月号に6ぺージにわたって掲載された写真は大きな反響を呼びました。同年、キヤノンサロン初個展「Train吹けば…」で鉄道写真家としてデビューすることになりました。

この写真はJR西日本の寝台特急「サンライズ瀬戸」が夜明けの瀬戸大橋を渡るところです。先頭車両が太陽と重なりあう瞬間は年に2回しかありません。4年がかりでようやく撮れた一コマでした。(会場から拍手)

プロカメラマンへの道は決して順風満帆ではありません。現在は鉄道会社の広報写真などを撮りながらも、宝石デザイナーの仕事と二足の草鞋です。来年、私はプロ活動40周年を迎えます。あらためて両親に感謝したいと思います。

公式サイト:持田昭俊オフィシャルブログ
「きゅうしゅうののりもの」「さいたまののりもの」(JTBパブリッシング)、「在来特急の旅」 (郵趣サービス社)など出版書籍多数。


※3名の発表文は、当日のメッセージを一部要約しています。文責は当編集部にあります。


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